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十二、絵か恋か
雄二が美術室の引き戸を開けると、普段と変わらない西日が差し込んでいた。昨日、沈下橋で死にかけ、家で最悪な牙を剥き合ったことなど、夢だったのではないかと思えるほどに、静かで、平穏な放課後。
住雪はいつも通り、キャンバスに向かって筆を動かしている。雄二の気配にピクリと肩を揺らしたものの、住雪は振り返ろうともしなかった。いつも通りの、冷酷で傲慢な背中。
雄二は自分の席にはつかず、入り口の近くに立ったまま。
「住雪」
名前を呼ぶと、筆の動きがわずかに止まる。
相変わらず振り返らないその背中に向かって、雄二は、驚くほど平坦で、よく通る声を投げた。
「俺、退部するから」
「…………」
「先生にはもう退部届出してきた。だから、俺がここに来るのもこれが最後。──じゃあな」
住雪の背中が、明らかに強張ったのが分かった。彼は筆を持った手を微かに震わせ、戸惑ったように、ゆっくりとこちらを振り返った。その顔に、かつての圧倒的な支配者の余裕はない。昨日の「弱さ」を知ってしまった雄二には、それがよく分かった。雄二はふっと口元を緩める。
「お前は絶対、将来絵の仕事に就けよ。それだけの才能があるんだからさ。どうせ気が済むまで全部描くんだろ。俺も別の場所で、死ぬ気で追いついてやる」
それだけ念入りに言い残すと、雄二は住雪の返事を待つことなく、踵を返した。引き戸を閉める瞬間、美術室の奥から、住雪の焦ったような声が聞こえたが、雄二は振り返らなかった。
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放課後の廊下で、雄二は苺枝に呼び止められた。彼女はいつも通りのきびきびとした様子の中に、どこか探るような、心配そうな色を浮かべていた。
「退部したんだって?」
「おう」
雄二は何でもないことのように頷いた。苺枝は納得がいかないというように、小さく眉をひそめる。それもそうだ、突き飛ばされて怪我をしても住雪の絵に執着し、あれほど必死に彼を追いかけていた男が、あっさりと退部したのだから。
「なんで? あんなに熱心に描いてたのに。もしかして、また兄貴と何かあったの……?」
「いや、違うって。なんていうか──」
雄二は窓の外の夕焼けに視線を投げ、遠い目をした。
「……なんていうか俺は、絵を見ること以上に興奮することがない、異常者だってことが、思い知らされたというか……」
「え?」
苺枝が、本気で意味が分からないという顔をして足を止める。雄二はそれ以上言わず、ただ薄く笑っていた。
あの夜、重ねた唇の感触を思い出す。
雄二は確かに、住雪という人間を愛していた。あの狂った瞳も、怯えて震える脆さも、全部ひっくるめて愛おしいと思ってしまったのは本物だ。けれど、住雪本人への愛など、彼の絵への愛の前には霞んでしまう。
そもそも、彼という男に興味を持った最初の一歩からしてそうだった。彼の描く絵が、とんでもなく上手かったから。世界を塗り替えるような圧倒的な才能に魂を奪われたからこそ、雄二はその源泉である住雪自身にまで狂わされたのだ。
なのに、いざ唇を重ねてみれば、その肉体は驚くほど普通で、冷たくて、無力だった。神様のように崇めていた絵の神々しさに比べたら、生身の住雪なんて、ただの、ちっぽけな一人の人間に過ぎない。
(結局のところ、俺は住雪より、住雪の絵が好きだった)
だからこそ、もうあの狭い美術室で隣に並ぶ必要はなかった。
「あ、いや、とにかく住雪のおかげで絵も上達したし、もう十分かなと思ったんだよ」
雄二は取り繕うように頭をガシガシと掻いて、いつもの軽いトーンに戻した。
「それにさ、あいつの絵を一番いい特等席で見るなら、美術室の隣の席より、将来、美術館の壁のほうが相応しいだろ」
「……雄二、本当に変わってるね」
苺枝は呆れたように息を吐きつつも、雄二の表情に悲壮感がないのを見て、それ以上は追及してこなかった。じゃあね、と手を振って去っていく彼女の背中を見送りながら、雄二はふう、と息を吐き出す。
ポケットの中でスマホが震えた。取り出して画面を見た瞬間、雄二は息を呑んだ。通知欄に表示されたのは、予想もしなかった【住雪】の名前だった。
『次、お前は何を描く』
ただ、その一言だけがぽつんと送られてきていた。雄二の口元が、不敵に吊り上がる。歩きながら、画面に力強く文字を打ち込んだ。
『お前のあの桜を超えてやる。一番見たいものを言え。俺は何を描けばいい』
送信ボタンを押すと、数秒の後、スマホが短く震えた。
『描けるわけない。お前の趣味は最悪だ』
そのあとに、ぽつりと、一つの言葉が添えられていた。
『幸せな絵』
画面を見つめたまま、雄二は破顔した。
「幸せそうな絵」しか描けない怪物から突きつけられた、最大難度の課題。お前に本物の光が描けるのかという、痛烈な挑発。
胸の奥から、見たこともないような野心がふつふつと湧き上がってくる。雄二はスマホをポケットに押し込み、前を向いて歩き出した。
彼は今もあの美術室で、呪われたように、そして祝福されたように、世界で一番美しい絵を描き続けている。
〈完〉