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第5話
ある晴れた日の午後。
朱雀院財閥の次男・薫は、従者の瀬名葵を伴い、邸の外の静かな住宅街を散歩していた。
薫はいつものように、どこか物足りなそうに周囲の景色を眺めていた。
「……葵。邸の庭園を愛でるのも良いが、たまにはこう、視界を遮るもののない景色を眺めたいものだ。この近辺で、街全体を見下ろせるような場所はないのか?」
葵は困ったように、けれど誠実に答えた。
「街全体、でございますか……。確かにこの辺りは建物が多く、見晴らしの良い場所となるとすぐには思い当たりませんが……」
二人が足を止め、静かに思案していた、その時だった。
「……あの。街全体を見渡せる場所なら、私知っていますが……案内しましょうか?」
不意に横から、凛とした、しかし温かみのある声が響いた。
振り返ると、そこには飾らない美しさを持った一人の女性が立っていた。彼女は、明らかに一般人とは異なるオーラを放つ二人組を前にしても、臆することなく微笑んでいた。
薫は、その女性の真っ直ぐな瞳に一瞬言葉を失ったが、すぐに貴公子らしい丁寧な所作で応えた。
「……失礼いたしました。あなたが、その場所をご存知なのですか?」
真琴は力強く頷いた。
「はい。少し歩きますけど、今の季節、花もすごく綺麗に咲いている場所なんです。もしよろしければ、行きませんか?」
彼女の案内に従って坂道を登りきると、そこには薫が求めていた以上の絶景が広がっていた。
「…… これは……素晴らしい」
眼下に広がる街並み。そして、その周囲を鮮やかに彩るように咲き乱れる季節の花々と、瑞々しい木々。薫は思わず、その景色に見惚れて立ち尽くした。
「ここ、私が仕事帰りによく寄るお気に入りの場所なんです。静かだし、お花も綺麗でしょう?」
彼女は隣でそう言うと、薫はゆっくりと彼女の方を向き、深々と頭を下げた。
「……見事な景色です。教えていただき、心から感謝いたします。一輪の藤や椿を愛でるのも風雅ですが、こうして命が溢れる景色を……、いえ、あなたのような方に案内していただいたこの時間そのものが、何よりの『風雅』だと感じました」
「えっ……あ、ありがとうございます。そんなに褒められると照れますね」
屈託のない笑顔に、薫の胸の中の何かが、熱を持って動き出した。
「…お名前は?」
「…私は橘真琴と申します」
「真琴さんですか。素敵なお名前ですね。私は朱雀院財団理事長の朱雀院薫と申します」
「…えっ!?朱雀院さん…ごめんなさい!ご無礼があったかも…」
「いいえ。あなたは私に臆することなくあのような素敵な場所を案内してくださったことに感謝しています」
彼は手帳に彼女の名前を書き留めた。
数時間後。朱雀院邸に戻った薫は、そのまま正殿のキッチンへと直行した。
「兄上! 三葉! 今日、私はこの世の奇跡に出会ったんです!」
三葉は、驚愕のあまりレジ袋を落としそうになった。
「ちょっ、薫お兄様!? 珍しく興奮して……奇跡って、新しい花の品種でも見つけたの?」
「いいえ。橘真琴さんという女性です。彼女が案内してくれた景色は、どの古典籍の記述よりも美しかった…」
「薫お兄様……。あんなに『恋をする暇はない』って言ってたのに、敬語で熱弁するほど一目惚れじゃない!!」
三葉のツッコミを背に、薫は幸せそうに微笑んだ。
不器用な貴公子の心が、坂道を駆け抜ける風と共に、真実の愛へと走り出した歴史的な一日であった。