国家予算級の資産を持つ『朱雀院財閥』。
その財閥の5人兄妹の節約生活を書いた小説です!
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目次
第1話
夕暮れ時。東京の広大な敷地に鎮座する「朱雀院邸」の正門前に、一台のママチャリが猛烈な勢いで滑り込んだ。
「どいてどいてぇー! スーパーのタイムセール終了まであと5分なのよーーっ!!」
ペダルを全力で漕いでいるのは、朱雀院財閥の末っ子令嬢、朱雀院三葉。
風になびく髪、必死な形相。しかし、ハンドルを握るその指には、母・紫苑の形見である最高級のアメジストの指環が、夕陽を浴びて神々しく輝いている。
三葉は正門を突破し、ソーラーパネルが敷き詰められた広大な屋敷の中に滑り込む。そこには、かつての庭園を潰して作られた、日当たり抜群の家庭菜園が広がっている。
「はぁ、はぁ……セーフ! 鶏むね肉、グラム48円……! 2キロ確保したわ!」
三葉が戦利品のレジ袋を掲げて勝ち誇っていると、邸宅の中心から一人の男が優雅に歩いてきた。
朱雀院財閥の現当主、三葉にとって長兄にあたる明だ。
「お帰り、三葉。今日も見事な戦いぶりだったようだな」
「明兄様! 見てよこの鶏肉、明日まで持つのよ!」
「ふむ。……おっと、いけない。ひいながキッチンで待っているんだ。今夜は彼女が、俺のために『特製オムライス』を焼いてくれると言ってくれてね……ああ、ひいなの手料理が食べられるなんて、俺は世界一の幸せ者だ……」
さっきまでの威厳はどこへやら、明は妻・ひいなの名前を出した瞬間、デレデレの愛妻家に変貌した。彼は、ひいなが作るものなら例え特売の食材でも「世界一の贅沢だ」と本気で信じている。
二人が正殿の巨大なキッチンに向かうと、そこには既に先客がいた。三葉にとって次姉にあたる二葉だ。彼女はブルートパーズの指環をはめた手で、無表情に炊飯器のボタンを押した。
「……三葉、遅い。米はもう炊けているわ。あと、100均で買ったこの『レンジで簡単温野菜』容器……これ、最強ね。ガス代の節約になる」
「二葉お姉様、相変わらず合理的ね……。あ、薫お兄様は?」
三葉が辺りを見渡すと、キッチンの隅で、一人の美青年が深い溜息をつきながら、一本の玉ねぎを見つめていた。三葉にとって次兄、薫。一族で最も「風雅」を愛する男だ。
「……三葉。恋をする暇があれば藤や椿を眺めていたいと思っていた私だが、今日のこの玉ねぎは……実に……目に沁みるな」
薫は、胸ポケットに差し込んだスヌーピーの万年筆をそっと撫で、包丁を握った。
「薫お兄様、また気合入れすぎるとみじん切りになっちゃうわよ?」
「……ふっ。みじん切りではない。これは私の『誠意』の粒子だ」
猛烈なスピードで刻まれる玉ねぎ。薫の目からは、風雅な涙がボロボロとこぼれ落ちる。
「お兄様、泣きすぎ! 絆創膏だって100均とはいえタダじゃないんだからね!」
三葉のツッコミが響く中、明はひいなの横でデレデレし、二葉はレンジの「ピッ」という音に潔さを感じている。
これが、国家を超える資産を持ちながら、スーパーの特売に命をかける、朱雀院家の変わらない日常。
「さあ! 炊きたての新米と、特売の鮭と、薫お兄様の涙の玉ねぎ入りオムライス! みんなで食べるわよ!」
三葉の号令とともに、3000億円の邸宅に、庶民的で温かい夕食の匂いが立ち込めた。
第2話
「三葉、今日の100均の巡回ルートは決まった?」
音もなく現れた二葉が、ブルートパーズの指環を冷たく光らせながら問いかけた。彼女の手には、完璧に印字された「100均購入推奨リスト」が握られている。
「もちろんよ、二葉お姉様! 今日はキッチン消耗品の在庫一掃セールと、お兄様たちが使う園芸用品を揃えなきゃ」
三葉はアメジストの指環を誇らしげに掲げ、愛車のママチャリに跨った。今日は特別に二葉も同行するという。3000億円の邸宅の門番たちは、プチプラのパーカーを羽織った二人の令嬢が自転車で爆走していく姿を、敬意を込めて見送った。
「見て、二葉お姉様! このレンジでパスタが茹でられる容器、100円よ!」
「……甘いわね、三葉。それは旧型よ。こちらの『蒸気抜き穴付き』の方が、電気代を3%削減できる。こちらを買いなさい」
二葉は、雪景色を愛でる時と同じような澄んだ瞳で、プラスチック容器の裏の耐熱温度をチェックしている。
「さすが……! 100均は最強の知恵の宝庫ね……」
その時、二人の目に、文房具コーナーで立ち尽くす一人の男の背中が映った。
次兄の薫だ。
「……お兄様? 何してるの?」
三葉が声をかけると、薫はハッとしたように振り返った。その手には、100円のキャラクターシールが握られている。
「……あ、あぁ。三葉か。いや、私の万年筆……コンビニの付録だが、これに合うデコレーションを探していたのだ。この100円のシール……実に、風雅だと思わないか?」
「お兄様…まあいいわ、それはお兄様の自腹でね!」
帰宅後、正殿のキッチンでは、長兄の明が煮物の黄金比を追求していた。
「ひいな、今日の醤油は三葉が特売で買ってきたものだが……君が隣にいてくれるだけで、高級料亭の味になるよ」
「まあ、明さんったら。じゃあ、私は三葉ちゃんが買ってきた100円の便利グッズで、目玉焼きを綺麗に焼き上げますね」
今日は薫のみじん切りはお休み。だが、朱雀院家には秘策があった。
「今日は二葉お姉様の出番ね!」
「……ええ。米は完璧に炊けている。あとは、私が100均で厳選した『冷凍ハンバーグ』をレンジでチンするだけ。無駄な火力は使わない。これが私の美学よ」
二葉がブルートパーズの指環を光らせてスイッチを押すと、キッチンに「ピッ」という潔い音が響く。
「さあ、みんな! 炊きたての白米と、明兄様のじっくり煮物、そして二葉お姉様が魂を込めてチンしたハンバーグよ! 食べましょう!」
豪華な金銀の食器ではなく、100均で買った「軽くて割れない、節約時代の名器」に盛り付けられた夕食。
「うむ。100円のハンバーグが、これほどまでに味わい深いとは。民の知恵には恐れ入るな」
父・優も満足げに箸を動かす。
国家を超える資産を持ちながら、100円の価値を誰よりも愛し、語り合う。
朱雀院家の夜は、スマホの光ではなく、家族の笑顔と「次はどの100均に行くか」という熱い議論で更けていくのだった。
第3話
朱雀院邸に夜が訪れた。それぞれの屋敷に夕食の匂いが漂ったあと、兄弟姉妹は吸い寄せられるように寝殿に集まってくる。
「さて……今夜も始めようか。朱雀院家、恒例のアナログ夜会を」
長兄・明が、パチリと指を鳴らした。その視線の先にあるのは、三葉が昔、初めてのお使いで買ってきた、使い古されて少し角が剥げた100円のトランプだ。
「ゲーム禁止」という父・優の教えを守る彼らにとって、これが唯一にして最大のエンターテインメントだった。
「今夜の種目は『大富豪』。負けた者は……明日の早朝、家庭菜園の堆肥撒き担当だ!」
「望むところよ! 私、アメジストの指環に誓って負けないんだから!」
末っ子の三葉が気合十分にカードを配る。戦いは一瞬で熾烈を極めた。
「ひいな、この『2』のカードを君に捧げるよ。これで上がれるだろう? 」
「明兄様っ! 公私混同よ! ひいな様に甘すぎ!」
長男・明がデレデレしながらひいなに有利な札を回し、三葉の怒号が飛ぶ。
その隣で、次男の薫は真剣な表情でスコア表を書き込んでいた。
「ふむ……カードの配分、確率、そして皆の表情。この不確実性こそが風雅。……おや、二葉。また『革命』か?」
「……ええ。私は常に冷徹よ、薫お兄様」
次女の二葉が、ブルートパーズの指環を光らせながら無表情に「4」のカードを4枚叩きつけた。妹ながら、トランプを持たせると一切の感情を消す「氷の女王」へと変貌する二葉に、薫も思わず唸る。
「……みんな、集中しすぎてライトをつけすぎよ。一つ消すわよ」
三葉が広間の照明を半分に落とした。薄暗い中、100均で買ったロウソクに火を灯す。
「見て……この炎の揺らめき。トランプの絵柄が幻想的に見えるわ……」
「三葉、それは単なる『節約』だが……今の光景、実に風雅だ。一首詠めそうだよ」
薫は感動した。
「兄様、感傷に浸ってる暇があったらカード出して! はい、パス!」
結局、一晩中盛り上がった結果、負けたのはデレデレしすぎて自分の手札を疎かにした明だった。
「くっ……明日の堆肥撒きは俺か……。だが、ひいなが勝てたのなら、俺は本望だ……!」
「明さん……。明日、私もお手伝いしますわね」
二人の世界に入り込む当主夫婦を横目に、三葉はアメジストの指環を愛おしそうに撫でた。
「スマホもゲーム機もないけれど、こうやってみんなで笑ってる時間が、一番贅沢よね」
「……三葉、たまには良いことを言うわね。でも、ロウソクがもうすぐなくなるわ。1本5円よ。早く寝なさい」
二葉のクールなツッコミに、みんながドッと笑う。
3000億円の邸宅。広大な四季の町。
そこで100円のカードを囲み、兄が妹を、妹が兄を、時に厳しく時に温かく見つめ合う。
朱雀院家の「不変の日常」は、今夜も特売のロウソクの火のように、温かく揺れていた
第4話
「あら、相変わらずこのお屋敷は静かですこと。… 玄関の靴箱の上に、100均の消臭剤が置いてありますわね。やっぱり実家は落ち着きますわ」
そう言って優雅に正門を潜ったのは、九条家に嫁いだ一花だ。彼女の指には、母・紫苑から受け継いだ、優しく輝くモルガナイトの指環がはめられている。
「一花お姉様! お帰りなさい!」
末っ子の三葉が、菜園で採れたばかりの泥付き大根を抱えて駆け寄る。
「三葉、元気そうね。……あら、そのアメジスト、今日も綺麗に磨いているわね。偉いわ」
一花の帰省に合わせて、今日は「正殿」のキッチンがいつになく賑やかだ。
朱雀院家の5人兄弟姉妹が、久しぶりに全員揃ってキッチンに立つ。
「一花、九条家での食事も良いが、今日は俺とひいなで、最高に煮込んだ肉じゃがを振る舞うよ」
「まあ、兄上。相変わらずひいな様の前ではだらしないお顔ですこと」
一花がクスクスと笑う。明はデレデレしながらも、一花のために奮発して三葉が買ってきた特売の和牛を、職人芸のような火加減で煮込んでいく。
「姉上。九条家には風雅はありますか? 私は今日、この大根の葉を、万年筆で描いた設計図通りに刻むつもりです」
「薫、相変わらずね。でも、あなたのその『気合い』、私は嫌いじゃないわよ」
薫は妹の二葉が炊き上げたピカピカの新米の香りを吸い込みながら、包丁を握り直す。
夕食時、5人の指にそれぞれの石が輝く。
モルガナイト、ブルートパーズ、アメジスト……。そして、兄たちの手。
「お母様が仰っていたわ。『私の指環は、可愛い5人の子にあげるわ』って」
一花が、モルガナイトを愛おしそうに見つめる。
「私たちは、国家を超える資産を持ちながら、こうして100円のトランプで遊んで、家族で笑い合っている。お母様は、私たちが贅沢で壊れてしまわないように、この『心』を遺してくれたのかもね」
「そうだな」
父・優が静かに頷く。
「一花、九条家でも朱雀院の『質素の美学』を忘れるなよ」
「もちろんですわ、お父様。あちらでも、お風呂の残り湯は洗濯に使っておりますから」
「さすが一花お姉様!!」
三葉が感嘆の声を上げる。
その夜、5人は久しぶりに「100円のトランプ」で夜通し遊んだ。
一花が帰り際、薫の肩をポンと叩く。
「薫、あなたもそろそろ、その『パパラチアサファイア』を渡す相手が見つかるといいわね」
「……姉上、私は藤と椿があれば十分ですよ」
薫は涼しい顔で答えたのであった。
第5話
ある晴れた日の午後。
朱雀院財閥の次男・薫は、従者の瀬名葵を伴い、邸の外の静かな住宅街を散歩していた。
薫はいつものように、どこか物足りなそうに周囲の景色を眺めていた。
「……葵。邸の庭園を愛でるのも良いが、たまにはこう、視界を遮るもののない景色を眺めたいものだ。この近辺で、街全体を見下ろせるような場所はないのか?」
葵は困ったように、けれど誠実に答えた。
「街全体、でございますか……。確かにこの辺りは建物が多く、見晴らしの良い場所となるとすぐには思い当たりませんが……」
二人が足を止め、静かに思案していた、その時だった。
「……あの。街全体を見渡せる場所なら、私知っていますが……案内しましょうか?」
不意に横から、凛とした、しかし温かみのある声が響いた。
振り返ると、そこには飾らない美しさを持った一人の女性が立っていた。彼女は、明らかに一般人とは異なるオーラを放つ二人組を前にしても、臆することなく微笑んでいた。
薫は、その女性の真っ直ぐな瞳に一瞬言葉を失ったが、すぐに貴公子らしい丁寧な所作で応えた。
「……失礼いたしました。あなたが、その場所をご存知なのですか?」
真琴は力強く頷いた。
「はい。少し歩きますけど、今の季節、花もすごく綺麗に咲いている場所なんです。もしよろしければ、行きませんか?」
彼女の案内に従って坂道を登りきると、そこには薫が求めていた以上の絶景が広がっていた。
「…… これは……素晴らしい」
眼下に広がる街並み。そして、その周囲を鮮やかに彩るように咲き乱れる季節の花々と、瑞々しい木々。薫は思わず、その景色に見惚れて立ち尽くした。
「ここ、私が仕事帰りによく寄るお気に入りの場所なんです。静かだし、お花も綺麗でしょう?」
彼女は隣でそう言うと、薫はゆっくりと彼女の方を向き、深々と頭を下げた。
「……見事な景色です。教えていただき、心から感謝いたします。一輪の藤や椿を愛でるのも風雅ですが、こうして命が溢れる景色を……、いえ、あなたのような方に案内していただいたこの時間そのものが、何よりの『風雅』だと感じました」
「えっ……あ、ありがとうございます。そんなに褒められると照れますね」
屈託のない笑顔に、薫の胸の中の何かが、熱を持って動き出した。
「…お名前は?」
「…私は橘真琴と申します」
「真琴さんですか。素敵なお名前ですね。私は朱雀院財団理事長の朱雀院薫と申します」
「…えっ!?朱雀院さん…ごめんなさい!ご無礼があったかも…」
「いいえ。あなたは私に臆することなくあのような素敵な場所を案内してくださったことに感謝しています」
彼は手帳に彼女の名前を書き留めた。
数時間後。朱雀院邸に戻った薫は、そのまま正殿のキッチンへと直行した。
「兄上! 三葉! 今日、私はこの世の奇跡に出会ったんです!」
三葉は、驚愕のあまりレジ袋を落としそうになった。
「ちょっ、薫お兄様!? 珍しく興奮して……奇跡って、新しい花の品種でも見つけたの?」
「いいえ。橘真琴さんという女性です。彼女が案内してくれた景色は、どの古典籍の記述よりも美しかった…」
「薫お兄様……。あんなに『恋をする暇はない』って言ってたのに、敬語で熱弁するほど一目惚れじゃない!!」
三葉のツッコミを背に、薫は幸せそうに微笑んだ。
不器用な貴公子の心が、坂道を駆け抜ける風と共に、真実の愛へと走り出した歴史的な一日であった。
第6話
「薫が……女を連れてくるだと?」
正殿のキッチン。長兄の明は、ひいなにデレデレしていた鼻の下をピリッと引き締めた。
「ええ。お兄様、夏の町をうろうろしておりましたから」
末っ子の三葉が、アメジストの指環を光らせながら報告する。
その時、玄関から薫の声が響いた。
「……皆さん、入りますよ。……さあ、真琴さん、こちらへ」
リビングに現れたのは、緊張で少し顔をこわばらせた、ごく普通のOL・橘真琴だった。
その瞬間、朱雀院家の「普通じゃない」面々が彼女を囲む。
「……初めまして。橘真琴と申します。あの……これ、お近づきの印に、ポテトサラダを作ってきました……!」
真琴がおずおずと、100均のタッパーを差し出す。
「な、なんだって……っ!?」
明が声を震わせた。
「あの『恋をする暇があったら藤と椿を』と言っていた薫が……人間に、しかもこんなに素敵なお嬢さんに触れているだと!? ひいな! これは現実か!?」
「まあ明さん、落ち着いて。……真琴さん、よくおいでくださいました」
ひいなが優しく微笑む横で、次姉の二葉がブルートパーズの指環を光らせて真琴を凝視する。
「……橘真琴さん。あなた、100均のタッパーを愛用しているのね。……合理的だわ。気に入ったわ」
「え、ええ……。使いやすいので……」
真琴は、3000億円の邸宅の住人たちが全員、特売品の話をしていることに、衝撃を隠せなかった。
「真琴さん! 私、三葉です! 買い出し担当やってます! そのポテサラ、後でレシピ教えてね!」
三葉が人懐っこく笑いかけると、真琴の緊張が少しだけ解けた。
「……ふっ、見たか、三葉。真琴は私の目に狂いなどなかっただろう?」
薫が、どこか誇らしげに、しかし耳を真っ赤にして言った。
「お兄様、自慢してる暇があったら、真琴さんに中を案内してあげなさいよ!」
こうして、普通のOL・真琴と、世間離れした「質素な財閥一族」の、奇妙で暖かい交流が始まった。
第7話
真琴が「お近づきの印」として持ってきたタッパーいっぱいのポテトサラダ。
それを見た薫は、彼女の厚意にどうしても「自分の力」で応えたいと、猛烈に気合が入っていた。
「真琴さん。せっかくのポテトサラダですから、私が最高の付け合わせを添えてみせましょう。三葉、特売の玉ねぎを出しなさい。私は今、猛烈に『刻みたい』気分なんだ!」
「薫お兄様、ポテサラにはもう玉ねぎ入ってると思うけど……まあいいわ。はい、1玉19円のやつよ!」
薫は、胸のスヌーピーの万年筆をそっと撫で、精神を統一すると包丁を握った。
すごい速さで玉ねぎは切り刻まれていく。
薫は、真琴が自分のすぐ後ろで、ひいなと一緒に食卓の準備をしているという事実に、完全にトランス状態に陥っていた。
「薫お兄様、気合を入れすぎて玉ねぎが消滅しかけてるわよ!」
三葉のツッコミも届かない。薫は涙をボロボロ流しながら、一心不乱に刻み続けた。
「あっ、薫さん、危な……っ!!」
真琴が叫び、ガシッと薫の腕を掴んだ。包丁の刃が、薫の指先をわずかに掠めていた。
「……あ、あぁ。不覚です。真琴さん、あなたの気配に、つい心を奪われて……」
「何言ってるんですか! ほら、一旦手を洗って。……はい、これ貼っておきますから」
真琴がバッグから取り出したのは、何の飾りもない、ごく普通の肌色の絆創膏だった。
彼女は、
「じっとしてて」
と言うと、薫の細い指に、手際よくその絆創膏を巻きつけた。
「……真琴さん。この、飾り気のない実用性に徹した絆創膏。……実に、風雅だ」
「薫さん、ただの絆創膏ですよ? 痛みますか?」
「いえ……これは、一生忘れることのない、温かな痛みです」
「薫お兄様、ただの怪我でそこまで感動しないでよ!」
三葉のツッコミが響く中、薫は真っ赤な顔をして、自分の指を愛おしそうに見つめた。この後、真琴のポテサラを囲んだ食卓は、これまでにない温かさに包まれた。
その夜。賑やかな夕食が終わり、明兄様たちがそれぞれの町へ帰った後のキッチン。
そこには、皿を洗う次姉・二葉と、それを手伝う従者の瀬名葵の姿があった。
「……葵。あとの皿は私がやります。あなたは薫兄様の部屋の香の準備があるでしょう?」
二葉が、100均の洗剤を一滴だけスポンジに足しながら言った。
「いえ。薫様は今、真琴様からいただいた絆創膏を眺めながら日記を書くのに夢中ですから。……今は、私にお手伝いをさせてください、二葉様」
カチャリ、と皿が重なる音だけが響く静かなキッチン。
窓の外には、二葉が愛する冬の月が冷たく輝いている。二葉はふと、今日の兄の騒動を思い出した。
「……薫兄様も、変わりましたね。花よりも、一人の女性を選ぶなんて。合理的ではありませんが……どこか、羨ましくもあります」
二葉がふと漏らしたその言葉に、葵の手が止まった。
葵は、拭き終えたばかりの皿を置き、二葉の横顔を見つめた。
「二葉様……。私は、あなたが一人で雪を眺めている背中を、ずっと後ろからお守りしたいと思っていました。私では、貴女の隣で琴を聴く資格はありませんか? ……二葉様。お慕いしております」
「……っ」
二葉の動きが止まった。ブルートパーズの指環が月の光を反射して震えている。
「……葵。……貴方が、私の隣にいたいと言うのなら、……許可します。……明日の朝食、米の水加減から教えますから」
「……っ! ありがとうございます、二葉様!!」
その様子を、物陰からこっそり覗いていた三葉は、アメジストの指環を口に当てて必死に叫びを堪えていた。
3000億円の邸宅の、節約された静かな夜。
二人の恋が、皿洗いの泡の中に溶けていくように、確かに始まった瞬間だった。
現実じゃあこんなに両思いにならんやろ。私だって2回好きな人に振られたし。
まぁ自分が書いた小説だから仕方ないんだけど…
第8話
あれから数日。朱雀院邸の空気は、かつてないほど恋の熱を帯びていた。
そんな中、薫は、書斎で、母・紫苑の遺品である宝石箱を前に、背筋を伸ばして座っていた。
「……三葉。やはり、これしかないと思うのだ」
薫が震える指先で取り出したのは、朱雀院家の至宝の一つ。オレンジとピンクが溶け合ったような、蓮の花の色をした「パパラチアサファイアの指環」だった。
「お兄様…本当に、真琴さんに渡すのね? お母様が一番大切にしていた、あの指環を」
末っ子の三葉は、アメジストの指環をはめた手で、その輝きを眩しそうに見つめた。
「ええ。普通のOLである彼女に、この重みは酷かもしれません。しかし、私が初めて藤や椿よりも美しいと思ったのは、彼女だけなのです。……三葉、協力してくれますか。私は……最高に『奮発』したプロポーズをしたいのです!」
「奮発って言っても、お兄様。うちは『質素』が家訓よ? 派手なレストランなんて借りたら、お父様に破門されちゃうわ!」
三葉が釘を刺すと、薫は万年筆をペン回ししながら力強く頷いた。
「分かっています。場所は、私たちが初めて出会った、あの『街を見下ろせる丘』にします。……三葉、君には『100均』と『特売』の知識を駆使して、あそこを世界一風雅な場所に演出してほしいのです!」
そこからは三葉の独壇場だった。
「任せなさい! 100均のLEDキャンドルを100個並べて、特売の不織布を敷いて……。二葉お姉様には『冬の町』から琴を運んでもらいましょう!」
「……ええ。薫兄様のプロポーズなら、私も合理的でない協力を惜しまないわ。葵も、運搬を手伝ってくれると言っていますし」
冬の町から現れた二葉が、ブルートパーズの指環を光らせながら言った。その横には、少し照れくさそうに笑う葵の姿があった。
プロポーズ当日の夕食。真琴が来る前に、家族は作戦会議を兼ねた「決起集会」を開いた。
「薫、お前のその『奮発』、俺は支持しよう」
長兄の明が、ひいなにデレデレしつつも、薫の肩を力強く叩く。
「ありがとうございます、兄上。……うっ、今日の玉ねぎは……いつも以上に、涙を誘いますね……っ!」
薫はもはや恒例となった「涙の微塵切り」を繰り出し、真琴への愛を、そしてこれまでの孤独な風雅への決別を、包丁の音に乗せて刻み続けた。
「さあ、みんな! 準備はいいわね!? 朱雀院家の総力を挙げた、1円も無駄にしない『最高に奮発したプロポーズ』……スタートよ!!」
三葉の号令とともに、3000億円の邸宅から、一族がそれぞれの役割を胸に動き出した。
薫のポケットには、パパラチアサファイアの指環と、真琴が貼ってくれたあの絆創膏が大切にしまわれていた。
第9話
雪が降る冬の日。
薫は、真琴のアパートまで自ら迎えに行き、彼女を朱雀院邸へとエスコートした。
「……真琴さん。今日は、私たちの『家』で、あなたに伝えたいことがあるのです」
二人が辿り着いたのは、邸内でも最も月が綺麗に見える「正殿」のテラス。
そこには、三葉と葵が100均で買い揃えたキャンドルが幻想的に灯り、二葉の奏でる琴の音が風に溶けていた。
「真琴さん。私はあなたから、本当の豊かさを教わりました。……私の妻になっていただけますか?」
薫が差し出したのは、母・紫苑の形見、パパラチアサファイアの指環。
「はい……! 喜んで!」
真琴の返事と同時に、物陰から三葉たちが飛び出した!
「やったわーーー!! 成功よ!! さあ、お兄様、真琴さん、冷めないうちにキッチンへ!!」
プロポーズの余韻も冷めぬまま、一行は正殿の巨大なキッチンへ。そこには、一族が今日一日の総力を挙げた「お祝い」が待っていた。
「さあ、二人とも座ってくれ! 俺のじっくり煮込んだ具材と、ひいなのふわふわの焼きが合体した、特製オムライスだ!」
明がデレデレしながらも誇らしげに皿を運ぶ。
「薫兄様の……涙のみじん切り玉ねぎもたっぷり入っているわ。……私が炊いた新米との相性も合理的よ」
二葉がブルートパーズを光らせ、葵も誇らしげに頷く。
「真琴さん! 私が特売で買ってきた最高級の卵を使ってるんだから! 遠慮しないで食べて!」
三葉がアメジストの指環を掲げて笑う。
薫と真琴は、並んでスプーンを手にした。
「……美味しい。薫さん、皆さんの味がします」
「……ええ、真琴さん。これこそが、朱雀院家の『風雅』なのです」
薫は、絆創膏の貼られた指で、真琴の手をそっと握った。
3000億円の邸宅、100円のキャンドル、特売の食材。
そして、何よりも大切な「家族」と「愛する人」。
「……いいか、みんな。朱雀院家はこの『質素生活』を変えるつもりはない。だが、愛する者のためには、いつでも最高に『奮発』する一族であり続けよう」
父・優が、新米を頬張りながら満足げに宣言した。
正殿のキッチンに響く笑い声。
それは、デジタルゲームの音よりもずっと賑やかで、どんな贅沢品よりも贅沢な、朱雀院家の「昔から変わらない」最高の夜の音だった。
逆に失敗してたらどうなってたの?
第10話
薫のプロポーズから4年の時が経った頃。薫と真琴の間には新しい生命が誕生していた。
「パパ、泣かないで。その玉ねぎ、千代子が剥いてあげるから」
3歳の千代子が、真琴に買ってもらった「100均の子供用エプロン」をキリッと締め、薫の横で台に登った。
「……おお、千代子。そなたのその慈愛に満ちた手つき……。まさに、泥の中に咲く蓮の花のようだ。……真琴! 私たちの娘は、3歳にして『剥く』という行為の真理に辿り着いたようだな!」
薫は、千代子の似顔絵を描きながら、またしても涙をボロボロ流している。
「薫さん、大げさですよ。千代子、スーパーのチラシチェック終わった?」
真琴が笑いながら聞くと、千代子はブレスレッドをジャラリと鳴らした。
「ママ、今日は『もやし』がとっても安いの!あと、二葉おばちゃんから言付かった『ダイソーの密閉容器』の新型、千代子があるか確認しとくね」
「……合理的。さすが私の姪だわ」
冬の町から現れた二葉が、葵と仲良く「100均の湯たんぽ」を持ちながら、満足げに頷く。
薫は、千代子を見つめ、静かに決意した。
「……千代子。そなたの未来のために、パパはこれからも、1円の無駄も許さぬ『風雅な節約』を極めよう。……さあ、明兄様たちを呼ぼう! 今夜は千代子が剥いた玉ねぎで、最高に安上がりで豪華なカレーだ!」
朱雀院家に舞い降りた3歳の天使は、誰よりも早く特売情報の「真理」を理解し、2026年の邸宅に新たな風を吹き込んでいた。四つの町に灯る百円の光、それぞれの指に輝く形見の石、そして千代子が握りしめた特売のチラシ。3000億円の邸宅に響く笑い声は、かつての王朝の雅さえも超えていく、朱雀院家だけの『不滅で最高な』日常の音だった。
ある教師とある生徒は完結まで12日間かかったのにこれ1日で終わった…