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16話「敗者のバイタル・サイン(前編)」
じっとりと首筋にへばりつく汗を、夜の校庭を吹き抜ける冷たい風が、容赦なく凍らせていく。
ゲーム部部室を自爆させ、生徒会総務のインフラごとシステムを強制ショートさせてから、わずか数分。俺たちは、追手の目を眩ますために学園の死角——中央庭園の深い茂みへと滑り込んでいた。
「ハァ、ハァ……っ! 嘘でしょ、総務の執行部が、もうそこまで……!」
俺の腕の中で、神代玲奈が苦しげな呼吸を漏らしながら、綺麗な顔をクシャクシャに歪めていた。
彼女を横抱きにしたままの俺の制服の胸元に、彼女の細い指先が、怯えと悔しさの混ざった力でしがみついてくる。
俺——御堂綾(みどう りょう)は、息を乱すことなく、第一ボタンまでキッチリと閉めた制服の襟元を正した。
前髪の隙間から覗く俺のガラスの瞳は、過負荷による毛細血管の充血で、ドロリとした底知れぬ「バイオレット」の狂気を宿したまま、腕の中のヒロインの細部をスキャンする。
呼吸、1分間に46回。脈拍、138。
限界に近い。だが、そのバイタル・サインが告げているのは、恐怖だけではない。「裏切られた」という絶望を強引に飲み干し、再び前を向こうとする、狂おしいほどの反逆の熱量だ。
「神代さん。お前のその歪んだ絶望顔は極上の査定材料だが、まだへたばるには早すぎる。お前の兄(偽神)の首は、まだあの高い玉座の上だ」
「わ、分かってるわよ……! 誰が、あんな男に……ッ!」
「イェア……! 薬は抜けたが、総務のネズミどもが四方から囲んできてやがるぜ、ドクター!」
樽巻拳殴先輩が2m21cmの巨軀を屈め、サングラスの奥の目を血走らせる。
「俺の勘も最悪だ。確率0.02%の逃亡ルートなんて、どこをどう引っくり返しても見つからねえ……!」
金成こいんが、手元で特製コインをギチギチと握り締めながら黄色の瞳を曇らせた。
システムをハックし、物理的な退路を断ってもなお、神代景の包囲網は狭まっていく。
その時だった。
……サク、サク……
コンクリートではなく、湿った土を踏み締める、極めて微小な足音が、俺たちのすぐ背後から響いた。
「なっ……!?」
樽巻先輩の野生の知覚すら、その接近を直前まで捉えられなかった。
暗闇から染み出すようにして現れたのは、制服のあちこちを焦がし、胸元の中継器から今なおパチパチと不気味な火花を散らしている少女——斜藤あさひ。
その顔には、あの白い狐の仮面はなかった。
月光に照らされた素顔。ピンク寄りの赤瞳は完全にハイライトを失い、ドロドロとした暗黒の虚無に染まっている。薄い唇が、三日月形に、歪に吊り上がっていた。
「見ぃつけた、綾くん。……それから、景さんのゴミクズたち」
火花を散らして爆発した配電盤の黒煙が、狭い地下室に急速に充満していく。
「解除……成功。樽巻先輩、走れ!!」
俺の叫びと同時に、神経弛緩剤を気合いでねじ伏せた樽巻先輩が、巨軀を震わせて立ち上がろうとした、その瞬間だった。
「——逃がさない、って言ったでしょ」
ゾクリとするほど平坦な声が、煙の向こうから響いた。
振り返った俺の『眼(レンズ)』が捉えたのは、壁にへたり込んでいたはずの少女——斜藤あさひの、完全にハイライトの消えたピンク寄りの赤瞳だった。
彼女の手には、いつの間にか絵の具の汚れた白無垢の袖から引き抜かれた、細身のキャンバスナイフが握られていた。美術用の道具。だが、景の狂気によって研ぎ澄まされたその刃先は、鈍い月光を反射して致命的な凶器の輝きを放っている。
「景さんの世界を汚すバグは、私が綺麗に削り取るの」
あさひの肉体が、まるで重力を無視するようにして前方にスライドした。衣服の擦れる音すら立てない、完全な『空気』の暗殺歩法。
その刃が迷いなく突き出された標的は、まだ身体が完全に動かない、無防備な金成こいんの喉元だった。
「金成くん……っ!!」
神代玲奈が悲鳴を上げる。
「あ〜、クソ……ッ!」
こいんが黄色の瞳を見開くが、弛緩した身体は一歩の退避すら拒絶する。
——間に合わない。
そう判断した瞬間、俺の身体は論理(ロジック)を置き去りにして動いていた。
第一ボタンまでキッチリと閉めた制服の袖を翻し、こいんの身体を強引に突き飛ばす。
ザクッ————。
肉を裂き、骨に達する生々しい手応えの音が、地下室の爆音に混ざって鼓膜に届いた。
「……つ、あ……っ」
短い苦悶の声を漏らしたのは、俺でも、こいんでもなかった。
突き飛ばされたこいんの前に、その2メートル21センチの巨軀を肉の壁として割り込ませた男——樽巻拳殴先輩だった。
あさひの放った鋭利な刃は、先輩の強靭な右太ももの横紋筋を深く、深く貫いていた。
ドロリとした鮮血が、黒い半ズボンを急速に赤黒く染め上げて床の防電磁波コインへと滴り落ちる。
「樽巻、先輩……!?」
こいんが声を震わせる。
「イェ、ア……! 舐めるなよお嬢ちゃん……。俺の筋肉は……この程度の、細い鉄屑じゃ……ビクともしねえ、ぜ……っ!!」
樽巻先輩はサングラスの奥の目を血走らせ、太ももに刃物を突き立てられたまま、丸太のような左腕をあさひに向けて一閃した。
凄まじい風圧が黒煙を吹き飛ばすが、あさひは刺したナイフを躊躇なく引き抜き、再び衣服の擦れる音一つ立てずにバックステップで影の中へと溶け込んでいく。
引き抜かれた刃先から、先輩の血が放物線を描いて飛び散った。
俺の『眼』が、瞬時にあさひのバイタルをスキャンする。
呼吸、1分間に12回。脈拍、58。
誰かを深く傷つけ、血を流させたというのに、彼女の数値には1%の動揺も、罪悪感の跳ね上がりも存在しない。
「100%の真実の狂気」。彼女にとって、この惨劇はキャンバスに赤い絵の具を塗るのと全く同義なのだ。
「あさひちゃん、あなた……本当に狂って……っ」
玲奈が恐怖に綺麗な顔をクシャクシャに歪め、俺の腕の中でガタガタと震えている。
「……査定終了。被検体:斜藤あさひ。危険度、特級に引き上げ」
俺は色素の抜けきったプラチナホワイトの前髪をかき上げ、制服に飛び散った先輩の血を冷徹に見つめた。網膜の裏側の演算回路が、ドロリとしたバイオレットの電子色にギラリと明滅する。
「金成くん、先輩の肩を担げ! 執行部がドアを破る。ここから先は、一秒の遅れが本当の『死』に繋がりますよ」
「おうよ……っ! 先輩、持ちこたえてくれ!」
こいんが動かない身体を無理やり駆動させ、血を流す樽巻先輩の巨軀を支える。
爆破された鉄扉の向こうから、いよいよ執行部たちの怒号と足音が、この部屋の入り口へと殺到してきた。
「ふふ、おもしろい色。綾くんたちの血は、とっても綺麗な縹色だね」
仮面の奥からあさひの冷たい嘲笑が響く中、俺たちは崩落する聖域を捨て、本物の修羅場へと足を踏み出した。
——本日の観測を終了。斜藤あさひの凶刃による樽巻拳殴の負傷、および戦線離脱を確認。共犯者チーム、多大なる損害を被りつつ逃亡フェーズへ移行。
次回、第17話「敗者のバイタル・サイン(後編)」