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9話「Please don't make an enemy of your muscles」
じっとりと首筋にへばりつく汗は、もはや生温かいなどという生易しいものではなかった。
それは、網膜の裏側で過熱を続ける論理回路の、そして恐怖と歓喜の狭間で沸騰しかけている脳髄の、生理的な排熱そのものだった。
放課後の喧騒が完全に途絶えた旧校舎の地下室。
そこに充満していたのは、死にかけたニカドバッテリーの酸っぱい金属臭と、過負荷で焼き切れたルーター基板の、鼻を突く焦げたプラスチックの匂いだ。
「——バグ、か」
俺、御堂綾の唇から漏れたのは、低く、乾いた自嘲だった。
俺の眼は、人間の呼吸、脈拍、筋肉の弛緩からすべての『数値』を割り出し、その喉の奥に隠された嘘を完璧に透視する。そのはずだった。
だが今、網膜の奥にインストールされた視覚演算は、眼前に直立する規格外の怪物を前にして、激しい砂嵐とともに「計測不能」の警告を狂ったように明滅させている。
そこに、嘘がないのだ。人間という生き物は、どれほど冷酷に振る舞おうとも、内面には自己保身の「虚栄」や、他者を排斥するための「欺瞞」の澱みを抱えている。だが、この男にはそれがない。
「イェア!! 俺の名前は樽巻拳殴! あんたたちの先輩にあたる、陽気な二年生だ! 趣味は筋肉、好きなモノも筋肉だ!!」
鼓膜を物理的に破らんとするほどの爆音が、閉鎖された地下室に反響した。
身長221センチ。誇張抜きで巨大な壁と見紛うほどの巨軀。その皮膚の下で蠢く横紋筋の束は、まるで甲冑のプレートのように超高密度で編み上げられ、周囲の空気を体熱で陽炎のように歪ませている。
「……測定、不能だと?」
俺は奥歯を噛み締め、網膜の裏で明滅する視覚演算を強制リセットした。
呼吸、一分間にわずか四回。
それは深呼吸などという生易しいものではなく、強靭すぎる心肺が極限まで無駄を削ぎ落とした「静止」に近い。嘘をつくための動揺も、虚栄のための脈拍の跳ね上がりも存在しない。この男の行動原理は、自らの肉体を鍛錬し、駆動させるという単一のベクトルのためだけに完全に純化されていた。
「おいおいフレンド、そんなガラスの眼で俺を見るなよ。筋肉は嘘をつかないが、その眼は酷く繊細にできているらしいな!」
樽巻は小脇に抱えた最新鋭のタフブック——
マグネシウム合金製の頑丈な筐体——
をデスクの上に叩きつけた。いや、叩きつけたのではない。置くという動作の加速が、結果としてデスクの鉄板を凹ませるほどの衝撃波を生んだのだ。
よく見れば、そのタフブックからは白煙が立ち上り、キーボードのプラスチックはドロドロに融解して一つの黒い塊に変形しつつあった。
「……樽巻先輩。あなた、今なんと言いました? 物理的に殴り倒して、入ってきたと?」
俺の冷徹な問いに、樽巻は二年生用回線からの侵入と秒速二十二メートルの打鍵によるファイアウォールの自壊を豪快に語る。その圧倒的な物理的ゴリ押しに、神代玲奈は絶望と恐怖で崩れ落ちる。
AIと論理に支配された彼女の世界観は砕け散り、俺の制服にしがみついて縋り付いた。俺の脳内は彼女の絶望を愛でる余裕すらなく、樽巻の「肉の演算速度」を利用したハッキングの演算に支配されていた。
俺が樽巻に協力を求め、玲奈の恐怖の脈拍を景の通信の逆探知フィルターに利用する作戦を告げると、玲奈は壊れた人形のように頷いた。俺が常人には理解不能な十六進数の文字列と解読コードを呪文のように読み上げ、セクターフォーの開始を告げると、樽巻は凄まじい咆哮とともに超加速の打鍵を開始した。
摩擦熱でタフブックは青白い炎を上げ、血が飛び散る中、樽巻は概念の壁としての暗号を物理的暴力で粉砕していく。千層から一気にゼロへと至る暗号経路を剥がし、「見つけた」と呟いた俺は地下四階の空白地帯の座標を特定する。樽巻の指先は裂け、パソコンは完全に融解していたが、彼は不敵に笑う。涙に濡れ震える玲奈を尻目に、俺は第一ボタンを正し、神代景をハントするための次の扉を開いた。
「…あ?」
重厚な鉄扉の隙間、光すら届かないはずの虚無の輪郭から、その少女は文字通り「染み出す」ようにしてそこに佇んでいた。
「綾くん……だったよね…?私は、斜藤あさひ。苗字は影で、名前は光…面白いでしょ」
背筋を不快な悪寒が駆け抜ける。俺、御堂綾の網膜の裏側で、視覚演算システムが激しいノイズを上げて混線した。人間の呼吸、脈拍、皮膚の微動から、その内面の「嘘」を100%割り出すはずの俺の眼が、目の前の存在をただの『空白』としてしか認識しない。
白い狐の仮面。すべてを覆い隠す陶器の滑らかな輪郭。
その奥から覗く、ピンク寄りの妖しい赤瞳だけが、生々しい知性を湛えてこちらを見据えている。
全身を包む黒い衣服は、旧校舎の濃い影と同化し、彼女の輪郭をあやふやに溶かしていた。
「な……いつの間に……!?」
背後で神代玲奈が、引きつった呼吸のまま声を絞り出す。新道、一ノ瀬、そして如月院をも看破してきたあの元・女王の鋭敏な知覚すら、この少女の接近を完全にスルーしていた。
それだけではない。
「……おい、そこのお嬢ちゃん」
分速4回という驚異的な徐脈を維持し、野生の獣以上の危機察知能力を持つはずの樽巻拳殴すらも、サングラスの奥の目を限界まで見開いて凝視していた。
「あんた、いつからそこにいた? 俺の筋肉が、あんたの『質量』を感知しなかった……。まるで、ただの空気が服を着て喋っているみたいだな」
「氷が飲み物に溶けていくように、私も空気に溶けていく」
斜藤あさひは、どこか浮世離れした詩的な声音でそう呟いた。抑揚のない、しかし妙に鼓膜へ残る鈴のような声。俺は一歩、あさひに向けて足を踏み出す。
脳髄の演算装置を最大出力で駆動させ、彼女の「嘘」を、その仮面の奥に隠された「エゴ」を暴こうとスキャンを仕掛ける。だが、駄目だ。視覚から得られる情報が、あまりにも少なすぎる。仮面という物理的な障壁以上に、彼女の肉体そのものが発する気配があまりにも薄いのだ。
呼吸は深海魚のように静かで、衣服の擦れる音一つ立てない。これでは、嘘を見抜くどころか、そこに人間が存在しているという確証すら掴めない。
——天敵。
この学園のルールをハックし、他人の内面を数値化して支配してきた俺にとって、この『何も映らない鏡』のような少女は、文字通りの致命的なバグだった。
「神代景の差し向けた刺客ですか。それとも……」
俺の冷徹な問いに、あさひは首を微かに傾げた。その仕草すらも、重力を感じさせないほどに滑らかで、不気味だった。
「私はただ、空を見て、空をスケッチするのが好きなだけの、無害な女の子だよ」
嘘か、真実か。
俺の眼は、その判定を下すことを完全に拒絶していた。
「……『無害な女の子』、ですか」
俺の唇から漏れたのは、低く、ドロリとした乾いた笑いだった。
第一ボタンまでキッチリと閉めた制服の襟元に手をかけ、狂ったように「計測不能」を明滅させる網膜の裏側の論理回路を、力ずくで駆動させる。
「神代さん。お前の兄は、どうやら僕たちのことを随分と高く査定してくれているらしい。如月院先輩を潰されてなお、こんな『化け物』を手駒として隠し持っていたんだからな」
「綾くん、気をつけて……!」
背後で神代玲奈が、鋭い爪を自分の手のひらに食い込ませながら、警告の悲鳴を上げる。
「あの女のデータは生徒会の裏アーカイブにもなかった。完璧な『空白』よ。私の兄——神代景が、自らの直属として育み、この学園の査定システムの『死角』に配置した特級の猟犬に違いないわ……!」
「猟犬、か。綾くん、君は私のことをそうやって、自分の知る記号の中に押し込めたいんだね」
白い狐の仮面の奥から、斜藤あさひのピンク寄りの赤瞳が、ガラス細工のような冷徹さで俺を射抜く。彼女は一歩も動いていない。
だが、彼女の周囲の「闇の質量」が、じわりと膨れ上がったかのような錯覚を覚える。
「この空は瑠璃色……あ、少し縹色も混ざってる」
あさひは唐突に、旧校舎のコンクリートの天井を見上げ、そこには存在しない虚空の色彩を、詩的な声音で紡いだ。
その言葉の選び方。周囲の凄惨な状況とは完全に乖離した、浮世離れした感性。
——違和感がある。
俺の眼は、彼女の脈拍も呼吸も、仮面の奥の表情もスキャンできない。
だが、彼女が今口にした「言葉」そのものが、強烈なノイズを放って俺の脳髄の演算装置に引っかかった。
「……斜藤さん。君は今、自分のことを『空気に溶けていく』と言った。周囲に協調し、ただの無害な背景として存在していると」
俺は一歩、あさひに向けて足を踏み出す。革靴の底が、コンクリートの床に溜まった冷たい水を踏み鳴らし、激しい水音を地下室に響かせた。
「だが、君のその『詩的な言葉』は、この泥泥とした栄華学園において、あまりにも異質で、あまりにも目立ちすぎる。本当に周囲と同化したい人間は、そんな自意識の塊のような言葉を他人に聞かせたりはしない。——君は、自分の感性を誰かに肯定されたくてたまらないんじゃないか?」
あさひのピンクの赤瞳が、一瞬、微かに収縮した。
スキャンデータには出ない。だが、言葉のドミノが、彼女の精神の防壁に確実に衝突した手応えがあった。
「他人の嘘を見抜く眼、か。君はそうやって、他人の心の柔らかい場所に土足で踏み込んで、格付けの毒を流し込む。……景さんが言っていた通り、とてもおぞましい生き物だ」
「おぞましい? 最高の褒め言葉です。だが、君のその言葉も『嘘』だ。君は偽神とその仲間以外を信用していない。その頑なな拒絶こそが、君の心が極限まで脆く、傷つきやすいことの証明だ。君は、自分の言葉を、絵を、世界を否定されるのが死ぬほど怖いんだ」
俺はさらに距離を詰める。俺たちの距離は、もはや手を伸ばせば届くほどの、ゼロ距離の心理欺瞞戦(カースト・ゲーム)へと突入していた。
「教えてくれ、斜藤さん。君がその醜いと称する仮面の裏側で、一体どんな怯えた顔をしているのか。僕が、君のその『空気の膜』を、根底からハックして引き剥がしてあげるよ」
あさひは応じない。ただ、彼女の身体から、完全に「殺気」が消えた。いや、殺気だけではない。彼女の存在そのものが、再び地下室の影の中へと、急速に「溶けて」いく。
「虹は、空が泣いた後の、優しくて温かい笑顔……。でも、君の目の中には、雨しか降っていないね。可哀想に」
あさひの姿が、揺らめく陽炎のように、俺の視界から、そして樽巻の野生の知覚からすらも、物理的に薄れていく。彼女は戦うのではない。ただ、この場から「消える」ことで、俺たちの追跡を完全に無効化しようとしていた。
「逃がすかよ……っ!」
俺がスマホのハッキング画面を起動しようとした、その瞬間。
「——おっとフレンド! そこからは、俺の『肉のドメイン』だ!!」
轟音とともに、空間が爆発した。樽巻拳殴の、丸太のような右腕が、あさひの姿が消えかけていた「虚空」に向けて、音速を超える速度で振り下ろされたのだ。
樽巻の拳が引き起こした大気の濁流と風圧により、あさひの気配や同化能力が物理的に暴かれ、彼女の細い肉体が影の底から引きずり出された。
仮面の奥から驚愕の息遣いが漏れる中、神代玲奈の操作で地下室の非常灯が限界出力を超えた「純白の閃光」を放つ。仮面を両手で押さえ、光の中に晒された斜藤あさひの姿が鮮明に浮かび上がる。
「査定、開始です、斜藤さん」
——本日の観測を終了。御堂綾による斜藤あさひの査定を開始します。
次回、「斜藤あさひの生き方」