消えてしまいたい僕たちは
編集者:佐野翠
高校生4人の重く切ない恋愛物語。
4人の感情は何処に行き着くのか──
通称「消え僕」
最後まで愛してくれると嬉しいです。
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目次
「消えてしまいたい僕たちは」登場人物紹介
**|有栖 結《ありす ゆう》**
年齢:16歳
誕生日:2月14日
好きなもの:月、黒百合
嫌いなもの:学校、大人
---
**|東条 英美《とうじょう えみ》**
年齢:16歳
誕生日:3月21日
好きなもの:友達、星、桜
嫌いなもの:夏、虫
---
**|夕月 華菜《ゆうづき はな》**
年齢:16歳
誕生日:1月1日
好きなもの:雪、兎
嫌いなもの:母親、花
---
**|南 奈桜《みなみ なお》**
年齢:17歳
誕生日:5月18日
好きなもの:夜景、小説
嫌いなもの:雨、結
---
**|木元 将《きもと まさる》**
有栖結たちのクラスの担任
親しみやすい性格で、生徒に人気がある
---
**|春吉 理恵《はるよし りえ》**
有栖結たちの高校の養護教諭
有栖結を1年生の時から気にかけている
---
**|夕月 駿《ゆうづき しゅん》**
夕月華菜の父親
---
**|夕月 華凛《ゆうづき かりん》**
夕月華菜の母親
---
**|翔馬《しょうま》**
有栖結の元カレ
これから、最終話、そして番外編まで見守ってくれると嬉しいです!
よろしくお願いします!
1
僕が教室に入って自分の席に着くとすぐに、友人である|東条英美《とうじょうえみ》が声をかけてきた。
「おはよう、|結《ゆう》!」
「おはよう。英美は相変わらず元気だね」
「私が元気なんじゃなくて、結がいっつも元気ないんでしょ!」
そこから始まった、英美の、僕のローテンションに対する文句を聞き流しながら教科書などの準備をして、それを終えると席を立った。
毎日、朝のホームルームが始まるまでの時間は屋上で過ごすことにしているのだ。
「また行くの? たまには私の話聞いてよ!」
「ごめん、また今度」
不満げな英美を残して教室を出た。
足早に廊下を進み、階段を駆け上がる。
数秒で屋上に続く扉の前に辿り着き、ゆっくりと重い扉を開けた。
目の前には見慣れた光景が広がっている。しかしその中でひとつだけ、普段と違う要素があった。
屋上の端にあるフェンスに寄りかかって空を見上げている、クラスメイト───|夕月華菜《ゆうづきはな》がいたのだ。
夕月華菜はゆっくりと僕の方を見て、口を開いた。
「君はたしか…同じクラスの|有栖《ありす》結さんだよね?」
全く関わったことのない人に名前を憶えられていたことに驚いて、動揺して何も答えられずにいると、
「あ、違った? 違ったならごめん!」
夕月華菜が顔の前で手を合わせて謝ってきた。
何も間違っていないのに謝らせていることに罪悪感を感じて、僕は慌てて訂正する。
「あ、間違って、ない。…有栖結です」
聞き取れるかどうかわからないくらいの小さな声で僕が言うと、夕月華菜は優しく微笑んだ。
「よかった。有栖結さん、せっかくだしちょっと話そうよ」
いつもだったら、「よく知らない人と話すなんて嫌だ」と言って断っていただろう。
でも今日は、話に付き合うことにした。それがなぜかはわからない。夕月華菜という人物が気になっていたのかもしれないし、誰かと話したい気分だったのかもしれない。
僕が屋上の端へと進んでフェンスの前で立ち止まると、夕月華菜が僕の方を向いた。
「結さんはどうして屋上に来たの?」
そう聞かれて夕月華菜の顔を見た。その顔に僕の心を探るような雰囲気はなく、ただの興味で聞いてきていることがわかる。
僕は素直に本当のことを答えることにした。
「えっと…毎朝、ホームルームが始まるまでの時間はここで過ごすことにしてるんです。朝はできるだけ一人でいたいから」
「そっか。…って、なんで敬語なの! 同い年なんだからタメでいいよ! っていうか一人になりたいって…私、邪魔かな?」
「いや! 大丈夫…です」
「ふふっ、よかった!」
夕月華菜はそう言って微笑むと、空を見上げた。
僕も同じように空を見上げる。流れていく雲を見つめた後、目を閉じる。
暦の上では夏の終わりだが、まだまだ気温は高い。でも、心地よい風が吹いていて体感はそこまで暑くなかった。
しばらく静かな時間が流れた。
ある時、隣から小さな声が聞こえた。
「消えたいなぁ…」
「え?」
驚きで思わず声を発してしまう。
クラスではいつも明るく、周りの友人たちと笑いあっている彼女から、「消えたい」なんて言葉が出たことが意外だった。
僕の声が聞こえたんだろう、夕月華菜がこちらを向いた。何とも言い難い複雑な表情をしている。
「…聞こえちゃった?」
「うん、まぁ」
「そっかぁ。……ねぇ、結さんは「消えちゃいたい」って思うことある?」
そう尋ねられて僕は少し困ってしまう。
あまり自分のことを他人にさらけ出したくはない。
ただ、彼女のイメージとは程遠い沈んだ声を聞いてしまうと、正直に答えることしか許されないような気がした。
意を決して僕は口を開いた。
「僕は…」
キーンコーンカーンコーン
朝のホームルーム10分前のチャイムが鳴り響く。
なんてタイミングだ、と思う反面、ほっと胸を撫で下ろしている自分もいた。
横を見ると、夕月華菜は先程とは全く違う明るい表情を浮かべて思いきり背伸びをしていた。
僕がじっとその姿を見つめていると、ふとこちらを向いた夕月華菜が微笑んだ。
「ホームルーム始まっちゃうから戻ろ! あ、さっきのことはみんなには内緒にしてね?」
僕は小さく頷き、スタスタと屋内へ続く扉に向かっていく夕月華菜の後を追った。
最後まで読んでくれてありがとう!
次回は24日です!
お楽しみに〜!
2
|夕月華菜《ゆうづきはな》と並んで教室に入ると、教室にいた全員から|怪訝《けげん》な目を向けられた。
それも当然だ。
クラスの隅で存在感を消して過ごしている僕と、常にクラスの中心にいる夕月華菜が一緒にいるなんて、誰だって不思議に思うだろう。
僕は自分の席に戻って、担任が来るのを待った。
5分ほど経った頃、教室の扉が開いて担任が入ってきた。
僕のクラスの担任───|木元将《きもとまさる》先生は、親しみやすい性格で生徒から人気がある。
木元先生は教壇に立つと、クラスを見渡して欠席者の確認をした。
僕自身、名前を呼ばれて返事をするのが苦手なので、それがないのはとても助かっている。
今日の朝礼では、修学旅行についての話があった。
班は自由に決められることになったようで、今日の5限目、事前学習の時間までに決めておくようにと言われた。
朝礼が終わり、各々が行動を始める。
授業の予習・復習をする人、読書をする人、友人のもとに行って話をする人など、その行動は様々だ。
今日は、周囲から修学旅行の班について話す声が多く聞こえてきた。
ちなみに僕はいつも、授業の予習をしながら|英美《えみ》と話している。
僕が1限目に使う教科書やノートを準備していると、英美が凄い勢いで近づいてきた。
僕が顔を上げると同時に、英美は僕の肩を掴んで強く揺さぶった。
「なんでさっき夕月さんと一緒にいたの!? 2人って関わったことすらなかったよね!? 説明して〜!」
「わかったから1回離して。頭おかしくなりそうだから…!」
僕がそう訴えると、英美は「ごめんごめん」と言いながら僕の肩を離して、空いている隣の席に座った。
「で、どういうことなの?」
英美に改めて聞かれ、どこまで言っていいものか少し考えた後、口を開いた。
「屋上に行ったら夕月さんがいたんだ。そこで少しだけ話した。ただそれだけ」
「話したって何を?」
「屋上に来た理由を聞かれたから、いつもそうしてるって答えた」
英美はまだ納得していないようで、僕を|訝《いぶか》しげな目で見てくる。
「ほんとにそれだけ?」
「それだけだって」
本当は他にも話したことはあるが、「内緒にして」と言われたため、それについて話すわけにはいかなかった。
「じゃあどうして一緒に帰ってきたの? 結だったら先に戻ってくるとかしそうだけど」
「話の途中でチャイムが鳴ったから、必然的に一緒に戻ることになったんだよ」
そこまで言ったところで、1限目の始まりを知らせるチャイムが鳴った。
英美はまだ何か言いたそうだったが、渋々といった感じで自分の席に戻っていった。
ふと気になって夕月華菜を見ると、彼女もこちらを見ていたのか、目が合ってしまった。
僕は慌てて顔を背ける。
その後に、顔を背けたのは印象が悪かったのではないか、という不安に襲われ、1限目は授業に全く集中できなかった。
3
2限目からはいつも通りに集中して授業を受けることができ、無事に昼休みまで辿り着いた。
「結、行こ〜」
昼休みになるとすぐに、僕は英美と連れ立って教室を出た。そのまま二人で食堂に向かう。
しばらく歩いていると、後ろから僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「結さ〜ん!」
驚いて勢いよく振り向くと、満面の笑みで駆けてくる夕月華菜がいた。
夕月華菜は僕の目の前で立ち止まると、呼吸を整えてから口を開いた。
「一緒にご飯食べない? 話したいこともあるし!」
突然の申し出に、僕は心底驚いた。
どうすればいいのかわからず、助けを求めるように隣にいる英美を見ると、英美は目を見開いていた。
僕と同じように…いや、僕以上に、夕月華菜から話しかけられたことに対して驚いているようだ。
「英美も一緒でいいなら大丈夫、だけど…?」
僕の返答を聞いて、夕月華菜は右手でOKサインを作った。
「大丈夫だよ! じゃあ、先に行ってて! 後で奈桜と一緒に行くから! …あ、食堂だよね?」
「うん、食堂だよ」
「おっけー、また後で〜」
夕月華菜は僕たちに手を振ると、教室に戻っていった。
夕月華菜を見送った後、僕と英美は食堂に向かった。
食堂で注文をして、食べるものを受け取って席に着いた。
ちなみに僕は、一番人気のチキンカレーを頼んだ。英美はカルボナーラだ。
しばらく2人で歓談していると、夕月華菜と女の子がそれぞれ弁当を持って近づいてきて、僕たちの隣に座った。
夕月華菜の隣にいる女の子は確か、クラスメイトの南奈桜だったはず。
僕は南奈桜に対して、「クールで大人っぽい人」というイメージを持っている。
「ねぇねぇ、自己紹介しない? クラスメイトだけどほとんど関わったことないし!」
食事の途中、突然手を挙げた夕月華菜がそう提案した。
急で驚いたけれど、断る理由もないので小さく頷いておいた。他2人も賛成のようだ。
昼食の時間ということで、それぞれ食べ進めながら話すことになった。
「よし、じゃあ私からね。|夕月華菜《ゆうづきはな》です! 好きなものは雪と兎! 嫌いなものは花です! 名前、''はな''なんだけどね。ふふっ」
夕月華菜が言い終えると、その隣にいる南奈桜が呆れたような表情を浮かべた。
「名前の事いっつも言うけどつまんないからね?」
「もう~別にいいじゃん! じゃあ次は…奈桜!」
南奈桜は、一度深呼吸をしてから口を開いた。
「|南奈桜《みなみなお》です。好きなものは夜景と小説で、嫌いなものは雨です。よろしく」
南奈桜が、「嫌いなもの」と言った時に僕の方に視線を向けた気がしたのは、僕の思い違いだろうか。
次は東条さん、と夕月華菜が言った後、英美が話し出した。
「|東条英美《とうじょうえみ》です。えっと…好きなものは、星と桜です。嫌いなものは、夏と虫です」
英美が自己紹介を終えると、僕に順番が回ってきた。
「|有栖結《ありすゆう》です。好きなものは月と黒百合。嫌いなものは学校と大人」
僕の言葉を聞いた後、興味津々といった感じで夕月華菜が尋ねてきた。
「黒百合なんてあるんだね! なんで黒百合が好きなの?」
「……花言葉が好きだから」
「え、どんな花言葉?」
「うーん…まぁそれは、ね」
「なにそれ~笑」
僕が曖昧に誤魔化すと、何かを察したのか、夕月華菜はそれ以上聞いてこなかった。
黒百合が持つ花言葉───「呪い」「復讐」が好きなんて言ったらどんな反応をされるのかわからなくて怖かったから、言わずに済んだのはとても助かった。
昼休みが終わるまで4人で談笑し、予鈴が鳴ると同時に席を立った。
英美と2人で、食べ終わった食器を返却棚に持って行き、そのまま食堂を出る。
英美と並んで教室へ戻り始めると、後ろから夕月華菜に声をかけられた。南奈桜は先に教室に戻ったらしい。
「結さん、今日一緒に帰らない? 結局、話したかった事話せなかったしさ」
そう言った夕月華菜は、少しだけ暗い顔をしていた。常に人の顔色を窺っている僕しか気づかないであろうと思うくらい、少しだけ。その証拠に、英美は何も気づいていない様子だった。
何かあったのかと疑問に思ったが、ここでは追求しないことにした。
「いいよ。今日は一人で帰る予定だったから大丈夫」
「よかった!」
そのまま一緒に教室に戻るかと思ったが、夕月華菜は僕たちとは反対方向に歩き出した。
声をかけると、「保健室に行く」とだけ言って足早に去っていった。
今日も最後まで読んでくれてありがとう!
次回は、1/26投稿予定です!
これからも応援してくれると嬉しいです!
4
僕たちが教室に戻るとすぐに5限目の授業が始まった。
5限目は、朝のホームルームで予告されていた通り、修学旅行の事前学習だった。
「班は決めておいたか?」
木元先生がクラスを見渡してそう言った。
ほとんどのクラスメイト達は、それぞれの友人と一緒の班になることを決めているようだった。
しかし僕は、何も決めていない。この時間になるまで完全に忘れていた。
「ほぼ決まってるみたいだな。決まってない人手挙げてー」
僕は静かに手を挙げる。
周りを見ると、|英美《えみ》が手を挙げているのが目に入った。
そういえば英美からもこの事について何も言われなかった。英美も忘れていたんだろうか。
そして意外にも、|南奈桜《みなみなお》も手を挙げていた。
てっきり友人たちと一緒に班を作っているものと思っていたのだが。
それこそ|夕月華菜《ゆうづきはな》と…
そこまで考えたところで、夕月華菜の不在に気が付いた。
あの時保健室に向かってからまだ戻ってきていないようだ。
木元先生も夕月華菜がいないことに気付いたのか、僅かに眉を上げた。
「南さん、夕月さんはどうした?」
「保健室に行ってます。たぶん華菜も、班決まってません」
「そうか」
木元先生は一度考えるようなそぶりを見せた後、口を開いた。
「じゃあ、今残っている人で班を作ったら?」
木元先生の言葉を聞いて、英美がこちらを向いた。僕は頷いて賛成の意思表示をする。
南奈桜の方を見ると、彼女もこちらを見ていて、「私はいいけど」と言った。
「先生、それで大丈夫です!」
英美が代表して木元先生に答えてくれた。
「よし!じゃあ後の時間は自由時間ってことでー」
それから僕は授業が終わるまで、英美と南奈桜と3人で話した。
と言っても、ほとんど僕と英美が話していたのだが。
南奈桜はずっと上の空で、窓の外を眺めていた。
5限目が終わり、6限目の授業も無事に終わった。
帰りのホームルームもいつも通り5分程度で終わり、下校時間になった。
その時になってもまだ、夕月華菜は教室に戻ってこなかった。
気になった僕は、南奈桜に声をかけた。
「南さん。夕月さんどうしたか知ってる?」
「知らない。保健室にいるんじゃないの」
「……ねぇ、夕月さんと何かあったの?」
僕がそう聞くと、南奈桜は一瞬驚いた顔で僕を見つめたが、すぐに顔をそらした。
「あなたには関係ないでしょ」
そう言うと、南奈桜は足早に教室を出て行った。
「結!」
後ろから突然声をかけられ、僕は驚いて肩をビクリと震わせた。
「びっ…くりした。なに?」
「なに?じゃないよ! 今日、夕月さんと一緒に帰るんじゃないの?」
「あぁ、そうなんだけどさ。戻ってきてないから…」
「うーん…保健室に行くって言ってたよね。行ってみたら? あ、私もう部活行かなきゃ! また明日ね~!」
「あ、うん。また明日」
英美が去ってすぐ、僕はバッグを持って教室を出て、そのまま保健室に向かった。
保健室に着くと、ドアをノックする。
「どうぞ~」
先生の声を聞いて僕はゆっくりとドアを開ける。
保健室の、春吉理恵先生は、僕の顔を見るなり顔を|綻《ほころ》ばせた。
「結さんか。最近来てないから心配してたけど、元気そうだね」
「はい。まぁ、なんとか元気にやってます」
僕がそう言うと、春吉先生は優しく微笑んだ。
「ふふっ…で、今日はどうしたの?」
「えっと…夕月さん、いませんか?」
「華菜ちゃんならさっき帰ったけど。何かあったの?」
「いえ、何も。…いないんだったら大丈夫です。ありがとうございました」
「うん。じゃあまたね~」
僕は春吉先生の声を背中に受けながら保健室を後にした。
昇降口に行って夕月華菜の靴がないことを確認する。
夕月華菜から誘っておいて当の本人が先に帰ってしまったことを少し疑問に思いながらも、僕はそのまま下校した。
5
僕は教室に駆け込んだ。
時計を見ると、朝のホームルーム5分前を示していた。
息を整えながらゆっくりと自分の席に向かい、どかっと椅子に座った。
|英美《えみ》が驚いた顔でこちらに近づいてくる。
「どうしたの? こんなギリギリになるなんて珍しいじゃん」
「はぁ~…普通に寝坊した」
僕がそう言って深く息を吐くと、英美が吹き出した。
「あははっ |結《ゆう》でも寝坊することあるんだ! めっちゃ意外なんだけど!」
「笑うなよ~!」
そこでチャイムが鳴り、英美は笑いながら自分の席に戻っていった。
木元先生が教室に入ってきて、簡潔にホームルームを行い、すぐに出て行った。数名の生徒がその後を追っていく。
相変わらず人気だなぁと思いながらその光景を眺めていると、入れ替わるように|夕月華菜《ゆうづきはな》とその友人たちが教室に入ってきた。先程まで教室内にいたはずだが、トイレにでも行ってきたんだろうか。
グループの中には|南奈桜《みなみなお》もいたが、気まずそうな雰囲気はない。夕月華菜もいつもと変わらない笑顔を見せている。
昨日の僕の心配は杞憂に終わったようで、僕は安堵のため息を吐いた。
しばらくして午前中の授業が始まる。
授業の内容をノートにまとめ、先生のつまらない話は聞き流し、授業の合間の休憩時間は英美と話す。
そんな感じで特に変わったこともなく、いつも通りに時間が過ぎて行った。
そして昼休み。
今日は購買でパンを買って屋上で食べることにした。
英美もついて来ようとしたが、丁重に断って一人で屋上に向かう。
屋上に続く重い扉を開けて外に出る。
するとそこには、昨日と同じようにフェンスに寄りかかって空を見上げる夕月華菜がいた。
夕月華菜は僕の存在に気付くと顔を綻ばせた。
「やっほ~!」
僕に向けて手を振る夕月華菜の方に近づいていき、隣に並ぶ。
「どうしてまたここにいるの?」
「うん? 結さんが屋上に行くって言ってるのが聞こえてきたから待ってたの」
「ふーん」
数秒間沈黙が続いた後、小さくお腹が鳴る音が聞こえた。
隣を見ると、照れ笑いを浮かべた夕月華菜と目が合った。
「昼ごはんは?」
「忘れちゃったんだ。お金もあんまり持ってないから何も買えないし…」
そう言ってため息を吐いた夕月華菜に、僕は無言でパンを差し出した。
差し出されたパンを見て、窺うように僕の顔を見つめてくる。
いいよ、と僕が小さく言うと、夕月華菜は満面の笑みを浮かべてパンを受け取った。
「ありがと~! 結さん優しいね!」
「別に」
僕はそう言って、もう一つのパンの袋を開けて食べ始める。
2つ買っといてよかったな、と思いながら食べ進めていると、隣から声をかけられた。
「昨日、先に帰っちゃってごめんね」
そう言われてずっと気になっていたことを思い出し、僕は夕月華菜に尋ねた。
「全然いいんだけどさ、…昨日、何かあったの? 南さんも変な感じだったけど」
僕の言葉を聞いて、夕月華菜は目を見開いた。
「えっ、と……。うん、まぁ、ちょっとね」
夕月華菜は目をそらし、誤魔化すように曖昧にそう言って笑った。
気になったが、追求するのはやめておいた。言いたくないことを無理に言わせる必要はない。
「そういえば、結さんに聞きたいことがあるんだった!」
突然大きな声でそう言ったかと思えば、夕月華菜は真剣な顔をして尋ねてきた。
「結さんは「消えたい」って思ったことある?」
「あぁ…そういえば答えてなかったね」
僕は昨日のことを思い出しながら呟いた。
昨日は、答えようとしたところでチャイムが鳴ってしまい、結局何も言えずに終わったのだ。
僕は一度深呼吸をする。
そして、落ち着いた声になるように意識して言葉を発した。
「あるよ。…今も、思ってる。もう何もかも投げ捨てて、逃げ出して、いなくなりたいんだよね。…この世界から」
そう言った瞬間、周りからすべての音が消える。
風を受けて真っ白な雲が遠くに流れていく。
僕のこの気持ちも一緒に流れていけばいいのに……
この気持ちがなくなれば、楽になるのかな……
そんなことを考えながら佇んでいると、隣から穏やかな声が聞こえた。
「私も同じだよ。この気持ちを理解してくれる人なんてなかなかいないから、結さんも一緒だって知れてすごく安心した。……「消えたい」って何だろうね」
「さぁ…」
2人で空を見上げる。
同じ気持ちを抱えて、僕の気持ちを否定せずに理解してくれる人が隣にいる。
それだけで、常に感じていた漠然とした不安は小さくなっていった。
キーンコーンカーンコーン
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
ゆっくりと歩き出した夕月華菜の後を追って屋内へと戻る。
教室に着くころには、夕月華菜はいつも通りの明るい笑顔を浮かべていた。
昨日と同じように、「さっきのことはみんなには内緒ね?」と僕に言う。
僕も昨日と同じように小さく頷いた。
午後の授業も何事もなく終わる。
帰りのホームルームもすぐに終わって、下校時間になった。
今日も英美は部活だということで、僕は一人で学校を後にした。
6
それから一週間が経った。
その間も僕は毎朝屋上に行っていたが、|夕月華菜《ゆうづきはな》が来ることは一度もなかった。
夕月華菜はクラスではいつもと変わらず、友人たちと一緒に過ごしていた。しかし、そのグループの中に|南奈桜《みなみなお》の姿はなかった。
今日も昨日までと同じように南奈桜はグループの中にいない。
クラスを見渡してみると、南奈桜は自分の席で読書をしていた。
僕がじっとその姿を見つめていると、視線を感じたのか、南奈桜はぱっと顔を上げてこちらを向いた。
僕と目が合うと、南奈桜は不快感を露わにする。
慌てて顔を背けて前を向くと、前の席には|英美《えみ》がいた。ニヤニヤしながら僕の顔を見つめてくる。
「…なに? どうしたの?」
「え~? 結ってさ、…南さんのこと、好きなの?」
「は?」
あまりに突拍子もない英美の発言に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
僕の反応を見て、英美が不思議そうな顔をする。
「え、違うの? 最近、南さんを見てること多いのに」
「違うよ。確かに見てることは多いかもだけどそれは、なんか…南さんが夕月さんと一緒にいるところを見なくなったからどうしたのかなって思ってるだけ」
僕の説明を聞き、英美は納得したような顔をして頷いた。
「そうだね…。どうしたのかな? 何かあったのかな?」
英美がそう言ったところで、夕月さんが僕たちのもとに来て声をかけてきた。
「結さん、今から屋上で話さない?」
「え、今からって…ホームルーム始まるよ?」
「保健室に行ってることにすればいいよ」
「え、でも…」
僕が煮え切らない態度をとると、夕月さんは表情を曇らせた。そのまま俯いて黙りこんでしまう。
その様子を見ていたたまれなくなった僕は、迷いながらも口を開いた。
「…わかった、いいよ。行こうか」
僕はゆっくりと立ち上がり、夕月華菜の手を引いて教室を出た。クラスメイトや廊下にいる生徒たちの視線を背中に受けながら、足早に屋上へと向かった。
屋上に着くと、2人で隣に並んでフェンスに背中を預けた。
「で、どうしたの?」
僕が尋ねると、夕月華菜は小さな声で
「奈桜と喧嘩した」
と言った。
どれだけ仲の良い友人同士であっても喧嘩することぐらいはある。そんなことはわかっているが、どうしても2人が喧嘩をする場面を想像できなかった。あれだけ仲の良かった2人が距離を置くようになる程の喧嘩の理由が気になったので、僕は素直に聞くことにした。
「喧嘩って…理由はなんだったの?」
僕がそう聞くと、夕月華菜はゆっくりと話しだした。
「うん…。喧嘩というか一方的に罵倒された感じなんだけど……」
---
「華菜。ちょっといい?」
ある日の放課後、教室を出ようとしたところで奈桜に呼び止められた。
振り返って奈桜の方を見ると、奈桜は真剣な顔をしていた。
「うん、いいよ。どうしたの?」
奈桜は一度深く息を吐いてから私に尋ねてきた。
「最近、有栖結と話してるのをよく見るけど、アイツとはどういう関係なの?」
「どういう関係って…?」
奈桜は険しい顔をしている。
奈桜がなぜそんな顔をしているのか、私には理解できない。
「だから、…アイツと付き合ってるの?」
奈桜の言葉を理解するのに数秒の時間を要した。
私は小さく笑って奈桜の問いに答える。
「そんなわけないでしょ! 結さんはただの友達! 勘違いしないでよ~笑」
いつものテンションでそう言うと、奈桜はなぜか、さらに表情を硬くした。
「ただの友達、って…。私との時間を削ってまで一緒に過ごすこともあるのに? あれだけ……」
奈桜は一度そこで言葉を切って、再び口を開いて言った。
「あれだけ「奈桜がいないと寂しくて死にそう」って言ってたのに、私のことはどうでもよくなったの!?」
突然の奈桜の大声に、心臓が飛び出しそうになる。
奈桜の顔を見ると、今にも泣きだしそうな表情をしていた。
奈桜がここまで感情を露わにするのは初めてのことで、どうしたらいいのかわからない。だけど、奈桜の最後の言葉だけは訂正しないといけない。それだけはわかる。
「奈桜のことがどうでもよくなることなんてない! 奈桜は私の親友だから。ね?」
私はそのまま奈桜を抱きしめようとしたが、強く拒まれた。
「もういいよ。どうせ、アイツのことが好きなんでしょ」
そう言い残して、奈桜は教室から出て行った。
---
話し終えた夕月華菜の顔は、苦痛に歪んでいた。
「どうして私は責められないといけなかったのかな…?」
夕月華菜の呟きに、僕は何も返せない。
僕が原因で起こってしまったことだという事実に衝撃を受けたのもある。
だけどそれ以上に、返すべき言葉を選ぶのに時間がかかった。
南奈桜が夕月華菜を責めた理由、それが何なのか、僕はなんとなく想像がついていたから。
だけどそれは、夕月華菜に伝えるべきではないと思う。南奈桜本人が伝えるまでは。
僕は、思いついた中で最善──と僕が思う解決策を夕月華菜に伝えることにした。
「とりあえず、南さんともう一回話してみたら? お互いに正直な気持ちを伝えあって、ちゃんと話せば、分かり合えるはずだから」
僕の言葉を聞いて、夕月華菜は笑顔を見せる。
その笑顔は、一瞬で作り笑いだとわかるほどに引きつっていた。
「ありがとう、結さん! 奈桜とちゃんと話してみるね! …私、保健室に行くから、先生に伝えてくれる?」
「うん、わかった。……大丈夫?」
「ふふっ 大丈夫だよ~」
夕月華菜は微笑みを浮かべたまま屋上を後にした。
「はぁ…」
僕はフェンスに寄りかかって、深いため息を吐いた。
夕月華菜が僕を信頼して打ち明けてくれたのに、僕は役に立つことを何一つ言えなかった。
話せば分かり合える、なんて無理に決まってる。話すだけで分かり合えるなら、人はここまで激しく衝突したりしない。
それはわかっていたが、凡人以下の僕の頭ではそこまでが限界だった。
それに…
役に立たない答えを出したことで、夕月華菜に無理をさせてしまった。
あの引きつった笑顔を見たとき、僕は自分の無能さを思い知った。
今僕は、無性に消えたくなっている。
悩み一つさえ解決できない僕は、この世界に存在している意味なんてない。
何より、自分の無能さに、馬鹿さに、これ以上傷つけられたくない。
結局のところ、僕は自分が傷つくのが嫌なだけなんだ。
それから、1限目の始まりを告げるチャイムが鳴った後も教室に戻る気にはなれず、1限目は屋上で過ごした。
1限目が終わってから教室に戻ったが夕月華菜の姿はなく、英美に聞くと、夕月華菜は早退したようだった。
僕は2限目が始まる直前になって保健室に行き、春吉先生の許可を得てベッドに潜り込んだ。
こんな気分ではベッドに入ったからといって眠れるはずもなく、10分程度で起き出して春吉先生と他愛もない話をした。
途中で僕の気持ちがガクっと落ちると、それを感じ取ったのか、春吉先生は「無理しなくていいから」と言って早退の手続きをしてくれた。
3限目が終わる頃、僕は春吉先生に見送られながら学校を出た。
憂鬱な気分を抱えたまま家までたどり着き、自室のベッドで気を失うように眠った。
7
|奈桜《なお》との衝突から二週間。
その間、私はいつものグループの中心で笑っていて、奈桜だけが一人きりで過ごしていた。
今は昼休みで、みんなでお弁当を食べている。いつもの奈桜の場所──私の隣の席だけが空いていて、それが目に映るたびに心にぽっかりと穴が開く感覚がした。
「…な、はな!」
「あ、はい! なんでしょうか!」
友達の声が聞こえ、慌てて答える。いつの間にかぼーっとしてしまっていたようだ。
周りを囲む友達を見回すと、皆一様に不安げな表情で私の方を見ていた。
声をかけてきた友達の一人が口を開く。
「ねぇ、華菜。…まだ奈桜と話してないの?」
そう言われて、私は曖昧に笑う。
自分が一番気にしていることを、友達とはいえ何の関係もない人に指摘されるのは心底不快だった。
「私、華菜と奈桜が一緒に笑ってないと嫌なの。…ちゃんと話せば仲直りできるから。私たちも協力するからさ、ね?」
「うん。そうだね…」
ちゃんと話せば、か。確か|結《ゆう》にも同じことを言われた。
一人きりで悩んでいた時、結だったらいい答えを出してくれるんじゃないかと期待して、奈桜とのことを打ち明けた。
だけど返ってきた答えは、私が期待していたものとは程遠いものだった。
勝手に期待して、勝手に落胆するなんて最低すぎる。
「じゃあ、今話しちゃおっか!」
そう言って立ち上がった友達は、そのまま奈桜のもとに向かおうとした。
私は慌ててその子の腕を掴んで引き止める。
「ちょっと待って! 奈桜とは…ちゃんと話すから。自分のタイミングで」
「そう?」
友達はほっとしたように息を吐いて席に座り、周りの友達と喋り始めた。
私も気持ちを切り替えてその輪の中に入っていった。
帰りのホームルームが終わり、教室からクラスメイト達が出て行った。
部活がない人や、そもそも部活に入っていない人は、教室に残って友達と話している。
今日、私は部活が休みで、残っている友達も見当たらなかったから、荷物をまとめ終えてすぐに教室を出ることにした。
私が出入り口のドアを開けて廊下に一歩踏み出したその時、
「華菜!」
私の名前を呼ぶ声がした。
後ろを振り返ると、そこには強張った表情を浮かべた奈桜がいた。
「な…」
「華菜ごめん!」
奈桜は私の言葉を遮ってそう言い、次の瞬間、勢いよく頭を下げた。
教室に残っていた何人かのクラスメイトが目を丸くしてこちらを見ている。
私自身も奈桜の行動に驚いていたが、なんとか奈桜を促して階段へと移動した。
しばらくの沈黙の後、奈桜が口を開いた。
「華菜。…あの時、私、言い過ぎた。ごめんね」
奈桜がしょんぼりした顔で私を見つめてくるのを見て、私は思わず奈桜を抱きしめた。
「全然いいよ! 私の方こそ、不安にさせちゃってごめん。私は奈桜のこと一番大事に思ってるからね!」
「ありがとう。…というか抱きしめなくてよくない?」
そう言った奈桜はいつも通りのテンションに戻っていて、それが嬉しくて、私は奈桜をさらに強く抱きしめた。
「奈桜は、どうしてあんなこと言ったの?」
奈桜から離れて私がそう聞くと、奈桜は僅かに俯いて考え込んだ後、答えた。
「うーん…華菜が有栖結にとられるのが嫌だったから、かな」
「え、それってヤキモチ!?」
私がそう言うと、奈桜は頬を紅く染めて小さく笑った。
「奈桜から離れることなんてないからね」
「ふーん…、あの後から一回も話しかけてこなかったくせに?」
「あ! それは言わなくていいじゃん!」
前みたいに一緒にふざけられるのがすごく嬉しくて、私たちは2人で笑いあった。
最後まで読んでくれてありがとう!
次回は8,9話、1/30投稿予定です!
ではまた〜!
8
一番最初に|夕月華菜《ゆうづきはな》と話した時から一か月が経ち、10月に入った。
今僕は、6限目の授業で、|英美《えみ》と夕月華菜と|南奈桜《みなみなお》と共に、修学旅行に向けた話し合いをしている。
今年の修学旅行は関東に行く予定。
1日目は横浜に行って、2日目は夢の国に行く。3日目には東京の観光地を巡って、最後に羽田空港でお土産などを買う、というものだ。
「で、2日目はどうする?」
班長である南奈桜の言葉に、夕月華菜が真っ先に手を挙げる。
「はい!どのアトラクションに乗るか決めようよ!」
「…うん、そうだね。決めといた方が効率的に動けるしね」
僕は夕月華菜と南奈桜のやりとりを眺めながら、心が落ち着くのを感じていた。
2人は少し前に喧嘩をして、しばらくの間距離を置いて過ごしていた。
それがある時から、以前と同じように仲睦まじく笑いあうようになった。
2人が仲直りできたみたいでよかった。僕は心の底からそう思っていた。
「結は?」
「え?」
突然、英美に話を振られて動揺してしまう。僕がぼんやりしていただけで突然ではなかったのだろうが。
「え、えっと…何の話だっけ?」
僕がそう言うと、一瞬の沈黙の後、夕月華菜があははっと笑った。
「ちょっと~、ちゃんと聞いててよね~!」
「結、ここでどのアトラクションに乗りたいかって話だよ!」
英美が教えてくれて、ようやく何の話をしていたのかを理解した。
机の上に置いてあったパンフレットを手に取って確認する。
夢の国なんて行ったことがなくて、どんなアトラクションがあるのかすら知らない。とりあえず有名なものを答えておいた。滝壺に落下してびしょ濡れになるやつだ。
その後、僕以外の3人がいくつかのアトラクションを挙げた。どれも僕の知らないものでよくわからなかったけど、とりあえず全部賛成しておいた。
昼食の場所やお土産を買う店などを決めて、ディズニーでの予定をまとめ終わったとき、チャイムが鳴った。
教室内を回りながら何人かに声をかけていた木元先生は、チャイムを聞いて黒板の前まで戻ってクラス全体に声をかけた。
「明日も同じことをするから今日決めた内容を忘れないように~。日直挨拶して~」
木元先生の言葉の後、日直の号令で授業が終わった。
帰りのホームルームが始まるまで何をして時間をつぶそうか迷っていると、英美が話しかけてきた。
英美は僕の顔と数センチの距離まで近づき、小声で言った。
「結ってさ、夕月さんのこと好きなの?」
そう聞かれて僕はため息を吐いた。
少し前に「南さんのこと好きなの?」と聞いてきたばかりなのに、今度は夕月華菜が好きだと思っているらしい。
「だから、そんなわけないって。夕月さんはただの友達だから」
僕はいつも通りの声色でそう答えた。
だけどそう答えると同時に、心に僅かな違和感があるのを感じた。
そしてなぜか鼓動が速まっていくのに気付いた。
英美は僕から離れると、落胆したような顔をして声を上げた。
「え~そうなの? さっきも夕月さんをじーっと見つめてたのに?」
「いや、見つめてないから。…っていうか英美ってそんなに恋バナ好きだったっけ?」
僕がそう言うと、英美は照れくさそうに笑った。
「恋バナはそこまで好きじゃない。でも、…結が恋してるなら応援したいな~って」
英美の言葉を聞いて、僕は思わずクスッと笑った。
「ありがとう、英美。好きな人できたら教えるよ」
「ほんと!? 一番最初に教えてね! 絶対だよ!」
「ふふっ、はいはい」
英美が自分の席に戻っていくと、僕は自分の心の変化について考え始めた。
夕月さんを好きではないと答えたときの僅かな違和感、不自然に速まる鼓動。
どちらも経験したことのないもので、なぜそうなったのかはどれだけ考えてもわからない。
夕月華菜のことは好きだが、それは友人として好きというだけ。
……と思い込んでいるのかもしれない。
だけど、この気持ちがもし恋であっても、恋なんてものとは無縁の人生を歩んできた僕には判断できない。
しばらく考えたが何もわからなかったので、僕は考えることをやめた。
9
修学旅行当日。
僕はクラスメイト達と共に飛行機に乗り込み、自分の座席に座った。
僕の席は|夕月華菜《ゆうづきはな》の隣で、後ろには|英美《えみ》と|南奈桜《みなみなお》がいる。
僕が修学旅行のしおりを開いて行程を確認していると、夕月華菜が話しかけてきた。
「ほんとに楽しみなんだけど! 今日は横浜だよね? 中華街楽しみ~!」
夕月華菜は、本当に心の底から楽しみにしているみたいで、いつもの数倍テンションが高い。
「だね~」
僕は夕月華菜が話しかけてくるのを軽くあしらいながら、飛行機が離陸するのを待った。
飛行機が空港を出てから約2時間。ついに羽田空港に到着した。
僕は飛行機には初めて乗ったのだが、案外快適に乗り続けることができた。
羽田空港からは、約30分かけて貸し切りバスで横浜中華街へと移動した。
「じゃあ、今から12時まで班で自由行動でーす。解散!」
「はーい!」
木元先生の声掛けの後、クラスメイトたちがそれぞれ班ごとに移動を始めた。
僕は夕月華菜に連れられて、班長の南奈桜に合流した。
「どこいく? なんか食べたいものとかある?」
「はい! 肉まんが食べたいです!」
「私、エビチリが食べたい!」
南奈桜の問いかけに、僕以外の2人が勢い良く手を挙げて答えた。
南奈桜は「わかった」と言って頷き、スマホでお店を調べ始めた。
僕が静かに3人の様子を眺めていると、南奈桜のスマホの画面を見つめていた夕月華菜が、ふいに顔を上げて僕の方を見た。
「|結《ゆう》さんは? 何か食べたいものとかないの?」
夕月華菜の声に反応して、他の2人も顔を上げて僕の方を見つめてきた。
3人分の視線を受けながらしばらく考えて、僕は小さく食べ物の名前を呟いた。
「|大鶏排《ダージーパイ》、とか? あったらでいいんだけど…」
「あ~、あのでっかいチキンね」
「うん」
南奈桜が調べて見つけてくれたお店に行ってみると、美味しそうなものがたくさんあって、一気に修学旅行が楽しくなってきた。
そのお店で大鶏排と肉まんを買って、食べながら次のお店へと向かう。
次に入ったのは町中華っぽい感じのお店で、入る前からいい匂いがした。
「私、エビチリで~」
「英美ってそんなにエビチリ好きなの?」
「好きだよ~」
南奈桜が「英美」と呼んだことに驚いて、僕は思わず南奈桜の顔を見つめる。
南奈桜は僕の視線に気付くと、ぷいっとあからさまに顔をそらした。
その時の表情が少しだけ可愛く感じたのは内緒にしておこう。
僕は大鶏排でお腹がいっぱいになっていたので、半チャーハンにした。
ちなみに夕月華菜はチャーハンとギョーザで、南奈桜は油淋鶏だ。
4人でお喋りをしながら食べ進め、全員が食べ終わったころには集合時間10分前になっていた。
慌てて会計を済ませて店を出る。
「やばいよー!」
と、口では言いながらも急ごうとしない夕月華菜を急かしながら、なんとか集合場所までたどり着いた。
「は~疲れた~。結、大丈夫?」
「はあ、はあ…。うん、なんとか」
僕は呼吸を整えながらクラスメイトたちが並んでいる後ろにつづいて並んだ。
「ほんとごめん、時間見てなかった」
「全然大丈夫だよ~」
「てかさ、時間管理の担当は夕月さんだよね?」
僕の言葉を聞いて、夕月華菜は恥ずかしそうに「ごめーん!」と言って笑った。
それから僕たちは再びバスに乗り込み、赤レンガ倉庫に移動した。
さすがに疲れてきていたけど、10分程度の移動だったのでなんとか大丈夫だった。
赤レンガ倉庫を実際に見たのは初めてだったのだが、外国っぽい雰囲気ですごく綺麗だった。
班のメンバー4人で写真をたくさん撮って、思い出を形に残せたのはとても嬉しかった。
途中、夕月華菜の提案で木元先生も入れて写真を撮ったのだが、正直それはまったくいらなかった。だけど一応、写真フォルダには保存しておいた。
僕たちは、バスで移動し、約1時間後に夢の国の近くのホテルに到着した。
高級感溢れるそのホテルは、ロビーも部屋もとても広くて綺麗だった。
一番はしゃいでいたのは意外にも英美だった。僕も英美に手を引かれて部屋の中を見て回る。
「ベッド大きい! え~私ここで寝たい! 結、一緒に寝る?」
「バカ。どこで寝るかは後でみんなで決めようね」
「私絶対、結と一緒に寝るからね!」
「はいはい」
1年生の時からずっと一緒にいる英美の扱い方は全てわかっている。こういう時は相手にしないほうがいいのだ。
英美と一緒に部屋中を見終わって夕月華菜たちのもとへと戻ると、南奈桜の姿がなかった。
荷物の整理をしていた夕月華菜に聞いてみると、南奈桜は班長会に行ったそうだ。
僕も自分のキャリーバッグから必要なものを引っ張り出したり、ごみを片付けたりする。
すると突然、英美が声を上げた。
「はい! 私、宣言します!」
英美の急な発言に、僕と夕月華菜は思わず顔を見合わせた。
「えっと、‥‥何でしょう?」
「うん、えっとね。私、修学旅行が終わるまでに…好きな人に告白します」
しばらくの沈黙の後、隣から鼓膜を突き破りそうな大きな声が聞こえた。
「えーーー!? 英美ちゃん好きな人いたの? え、いつから? え、告白するってほんとに言ってる? えぇぇ?」
「ちょ、夕月さん落ち着いて」
1人でパニックになっている夕月華菜を一旦落ち着かせて、再び英美の方を見ると、英美は頬を紅く染めて恥ずかしそうにはにかんでいた。
「好きな人いるとか、初耳なんですけど?」
「うん、言ってないからね。…教えないよ?」
「なんでよ! まぁいいけど。…うん、とりあえず頑張りな」
「うん、頑張る。ありがとう」
それから数分後、南奈桜が部屋に戻ってきて、夜の予定を説明した。
基本は班で動くということで、僕らは早速、夕食を食べに行った。
夕食は、大きな部屋に学年全員で集まって食べた。ビュッフェ形式で好きなものをたくさん食べることができて良かった。
その後はそれぞれでお風呂に入り、消灯時間までは自由時間ということになった。
「結~、行ってくる」
「ん~。…あ、行ってらっしゃい。頑張ってね」
英美が部屋から出て行って、部屋の中は僕1人になった。他の2人は少し前にそれぞれ出て行っていた。
僕は、友達の幸せを祈りながら、小説を開いて物語の世界に入り込んでいった。
最後まで読んでくれてありがとう!
英美の好きな人って誰なのかな…?
次回は10,11話、2/2投稿予定です!
これからも読んでくれると嬉しいです!
ではまた〜!
10
**|華菜《はな》side**
部屋から出て、近くの自動販売機に向かう。
ガタンと音を立てて落ちてきた飲み物を取り出す。
その時、後ろから誰かに声をかけられた。
後ろを振り向くと、真剣な顔をした|奈桜《なお》がいた。
「奈桜。飲み物買いに来たの?」
「‥‥ううん。華菜に話があってさ。ちょっと、いい?」
「うん、いいけど」
私の返事を聞いてから、奈桜は近くのベンチに歩いていった。
奈桜が座った隣に私も座る。私が隣に来ると、奈桜は私の方を向いて口を開いた。
「あのさ…。華菜に、伝えたいことがあるの」
「伝えたいこと? うん、なに?」
奈桜は緊張しているのか、表情が硬い。
奈桜は一度深呼吸をした後、ゆっくりと話し出した。
「私ね、華菜とずっと一緒にいて、いつからか華菜を誰にもとられたくないって思うようになったの。最初はね、友達として独占したいだけだと思ってたんだ。だけど、…私、本気で華菜を好きになってた。華菜に恋してたの」
奈桜はそこで一度言葉を切って、少しの間の後に次の言葉を紡いだ。
「華菜、私と付き合ってくれませんか…?」
奈桜の衝撃の告白に、私は数秒間反応することができなかった。
しばらくして脳が思考を取り戻し、奈桜の言葉の意味を考え始める。
奈桜が私のことを…。奈桜と私が付き合うなんてことあるの…?
そこまで考えたところで、なぜか頭に浮かんだ|結《ゆう》さんの顔。
困ったように笑って私の名前を呼ぶ結さんに、私の胸は締め付けられた。
いくつも浮かぶ結さんの顔は、どれも困ったような笑顔で、その笑顔を見るたびに心臓の鼓動が速くなっていった。
その時間で、私は自分の気持ちに気付いた。
私は、私は‥‥
「奈桜、ごめん」
そう言って、私は奈桜に向かって頭を下げた。
数秒後、静かに、奈桜の声が聞こえた。
「華菜、顔上げて」
私が顔を上げると、奈桜は目に涙を浮かべて微笑んだ。
「ありがとう。華菜は、結が好きなんでしょ、知ってたよ。ずっと華菜のこと見てたからさ、ちょっと前から気づいてたんだ。結に負けるのは悔しいけど、華菜には本当に好きな人と一緒にいてほしいから、潔く諦めます。これからも、友達、として、…よろしくね」
そう言って泣き出してしまった奈桜を、私は強く抱きしめた。奈桜が泣き止むまで。
「もういいよ。先に戻ってて」
「うん」
奈桜を1人にしてもいいのか迷ったけど、奈桜はこれで挫けるような人じゃないということを私は知っていた。
部屋へと戻る道の途中に誰かがいた気がしたけど、姿が見えなかったので、それ以上は気にせずに部屋に戻った。
---
**結side**
修学旅行2日目。
一日かけて夢の国でいろんなアトラクションに乗って楽しんだ。
他の3人も楽しんでいるように見えたが、僕は少し雰囲気がおかしかったように感じた。
夕月華菜と南奈桜はいつも通りじゃれあっていたけど、やり取りがぎこちない部分が目についた。
|英美《えみ》に至っては終始暗い顔をしていた。テーマパークは大好きなはずなのに。
僕は気になって、消灯時間までの自由時間で、英美にどうしたのか聞いてみることにした。
「英美、ちょっと聞きたいんだけど」
「うん、なに?」
「英美、今日なんか元気ないけど、何かあった?」
僕がそう尋ねると、英美は驚いたような顔をして僕の顔をじっと見つめた。
数秒後、英美は息をふっと吐くと、悲しそうに笑って口を開いた。
「失恋、したの」
「…失恋?」
「そう。私の好きな人がね、昨日、告白してるのを見ちゃって。だから、もう駄目だなぁって…」
僕は英美の答えを聞いて黙り込んでしまう。
英美の好きな人が誰なのか知らない僕には、何とも言いようがない。
だけど、1つだけ思うことがあった。
「ねぇ、英美。英美の好きな人の告白が成功したかはまだわからないんだからさ、諦めなくてもいいんじゃない?」
告白が失敗した可能性もあるのだから、これからアピールするのでも遅くはないはずだ。
「そっか、…そうだね。ありがとう、結!」
「うん」
恋愛経験のない僕でも英美を元気づける言葉を伝えることができてよかった。
「あのさ、ちょっといい?」
僕がベッドの上で小説を読んでいると、南奈桜に声をかけられた。
「うん、いいけど」
僕が答えるとすぐに、南奈桜は部屋を出て行った。僕は慌ててその後を追う。
南奈桜は、自動販売機近くのベンチに座っていた。
僕は少しだけ間をあけて南奈桜の隣に座った。
「昨日、華菜に告白した」
「…え?」
急な発言に、僕は驚いてしまう。
南奈桜が夕月華菜のことを好きなのは前から気づいていたから、「告白した」という部分には違和感はなかった。
でもなぜ、南奈桜はそのことを僕に伝えてきたのか。それが全く見当もつかなかった。
「なんで僕に…?」
「告白したところには反応しないんだ」
「あ、まぁ、うん。前から気づいてはいたから」
「そっか。うーん、なんで‥‥なんでだろうね? あのさ、結。結って華菜のこと好きだよね?」
「好き…なのかな?」
僕は夕月華菜のことが好きなのか。
確かに友達として彼女のことは好きだが、それが恋愛感情なのかはわからない。
ふと脳裏に浮かんだ、夕月華菜の太陽のように明るい笑顔。その笑顔に、なぜか僕の胸は苦しくなった。心臓の鼓動が速くなっていく感覚がする。
後から考えれば、この時にはすでに僕は夕月華菜のことが好きになっていたんだとわかる。
だけどこの時の僕は、恋というものが全く理解できていなくて、好きとも嫌いとも言えなかった。
「わかんないの? 私から見たらめっちゃ好きになってると思うよ、ムカつくけど」
「…」
何も言わない僕を見て、南奈桜は呆れたようにため息を吐き、立ち上がった。
「私、振られたからさ。華菜は結にあげるよ。その代わり…、華菜を泣かせたら許さないから」
「…うん」
「はぁ。まぁ、自分の気持ちがはっきりしたら頑張りなさい」
「はい」
僕の返事を聞いて、南奈桜は僕たちの部屋に戻っていった。
1人残った僕は、自分の気持ちについて考えた。
考えた結果、今の僕には何も分からないということが分かった。
その日は考え込んでしまって一睡もできなかった。
11
修学旅行3日目。
今、僕たちは羽田空港にいる。
今日の午前中は、東京スカイツリーや東京タワー、浅草寺、スクランブル交差点など、東京の観光地をバスで巡った。
僕は、昨日の夜に一睡もできなかった反動で、ほとんどの時間を寝て過ごした。記憶にあるのは東京タワーの赤色くらいだ。
羽田空港に着くと、集合時間までは自由にお土産を見て回っていいということになった。
僕は人の多さにうんざりしながら、昨日とはうって変わってとても元気になった|英美《えみ》と一緒に、お土産を見て回った。
とりあえず家族用に東京の銘菓を買い、英美には東京タワーのキーホルダーを買ってあげた。
自分用はいらないと思っていたのだが、お金が余ってしまったので、英美とお揃いのものを買った。
英美がすごく喜んでくれたので、買ってよかったなと思った。
僕も英美も、30分程度で買い物を終えた。
夕月華菜たちを探して合流する。2人とも、パンパンになった土産物袋を両手に提げていた。
「そんなに買ったんだ」
「うん! あ、これ|結《ゆう》さんに!」
そう言って|夕月華菜《ゆうづきはな》が渡してきたのは、くまのぬいぐるみのキーホルダーだった。
東京には関係ないものだったけど、僕のために買ってくれたその気持ちが嬉しかった。
「ありがとう。僕、何にも用意してないけど…」
「大丈夫、期待してないから!」
「え、それちょっとひどい…」
「あはは! うそうそ! 私があげたくてあげただけだから気にしなくていいよ~」
僕たちがそんなやり取りをしていると、|南奈桜《みなみなお》が声をかけてきた。
「もうすぐ集合時間だから行こっか」
「もうそんな時間か~。うん、行こ!」
僕たちはお喋りをしながら集合場所へと移動した。
帰りの飛行機に乗り込み、しおりを確認して自分の座席に座った。
帰りは、隣が英美で、前には夕月華菜と南奈桜がいる。
疲れていたのか、前の2人は搭乗してすぐに眠ってしまった。
「さすがに疲れたな…」
「そうだね~。東京の街とももうお別れかぁ。あ~帰ったら勉強地獄だ」
「ふふっ。一緒にがんばろーねー」
---
「ついたぞー。寝てる人起こしてー」
木元先生の声掛けで周りを見ると、僕以外の3人はすっかり眠りこけていた。
「英美~、起きて~」
英美の肩をトントンと叩きながら声をかけると、英美はゆっくりと目を開けた。
「着いたよ。荷物準備して」
僕がそう言うと、英美は寝ぼけ眼で、出していた荷物を片付け始めた。
次に前の2人を起こそうとしたが、もうすでに荷物の準備を始めていた。
どうやら先に南奈桜が起きたようで、南奈桜に起こされた夕月華菜は「うーん」と気持ちよさそうに伸びをしていた。
僕らは空港で解散し、そのまま帰路についた。
夕月華菜と南奈桜、そして英美は、眠ったことで体力を取り戻したのか、僕が3人と別れるまで終始騒がしかった。
「じゃあまた来週~!」
「うん、またね」
家に帰りつくと、僕は荷物を放り出してベッドにダイブした。
「明日は休みだから昼まで寝てよ~」
そう呟いて、そのまま意識を手放した。
最後まで読んでくれてありがとう!
英美と奈桜の恋についての噺でした〜
次回は2/4、12,13話投稿予定です!
ではまた〜
12
修学旅行から1か月が経った日の昼休み。
僕は1人、屋上で昼食を食べていた。
少し前まではまだ暖かかったが、最近になって一気に冷え込んだ。今日は風が強く、一段と寒い。
購買で買ったパンを食べ終わったとき、ブブッとスマホがメッセージの到着を知らせた。
ズボンのポケットからスマホを取り出してアプリを開く。
|夕月華菜《ゆうづきはな》から一件のメッセージが来ていた。
夕月華菜とは、修学旅行の後に連絡先を交換していて、実際にメッセージが来たのはこれが初めてだった。
<「今どこにいる?」
「屋上だけど」>
<「今から行ってもいい?」
「いいけど、どうしたの?」>
最後の質問には返事が来ないまましばらく待っていると、屋上のドアが開いて夕月華菜が姿を現した。
夕月華菜は僕の姿を見つけると、小走りで駆け寄ってきて、隣に並んだ。
「ごめんね、急に」
「別にいいよ。どうした?」
「うん、ちょっとね、……聞いてもらいたいことがあって」
「うん?」
聞いてもらいたいこと、とは何だろうか。
いつもは色々なことを積極的に話してくれる夕月華菜が、今は話すことを|躊躇《ためら》っているように感じる。
隣で僕の方を見つめる夕月華菜を見ると、どこか浮かない表情をしていた。
何かあったということはわかったのだが、それが何かは、当然僕にはわからない。
僕はそのまま、夕月華菜が話し始めるのを待った。
しばらくして、夕月華菜は意を決したように口を開いた。
「実はね、私、お母さんに虐待を受けてるの。……お父さんが1年くらい前に家を出て行って、それからお母さん荒れちゃってさ。私、もうどうしたらいいのかわかんなくなっちゃって…」
夕月華菜から伝えられた事実に、僕は目を見開いて息を吞んだ。
そんな家庭環境なのにもかかわらず、いつも明るく笑っている夕月華菜を見て、僕は「幸せそうでいいな」なんてことを思ってしまっていた。時には妬むこともあった。
そんな最低な自分自身に、心底絶望した。
こんな僕を頼ってくれたんだから何とかしないといけないと、僕は脳をフル回転させながら夕月華菜にいくつか質問をする。
「1年前から? 暴力を受けてるってこと? でも、どこにも傷なんてないし‥‥」
「今年に入ってからだよ。お母さんは、…お母さんは、私が服を着たら隠れる場所を選んで殴ってるみたいで。だから、見える場所にはないの」
「そんなこと…」
場所を選んでやっているということは、ある程度冷静な状態で攻撃しているということで。
こういう時は児童相談所に連絡するべきだと思う。
でも、児童相談所に逃げたところで、これから先ずっと母親と離れて生きていけるかといえば、必ずしもそういうわけではないだろう。
僕が持ちうる限りの情報を並べて頭の中で考え続けていると、隣で空を見上げている夕月華菜が呟いた。
「消えたいなぁ…。どこか遠くに、逃げちゃいたい」
その言葉を聞いて、僕はハッとした。
一番最初に夕月華菜と話したあの日。
夕月華菜は今と同じように「消えたい」と呟いていた。
僕はそれを聞いて一つ思ったことがある。
“本気で消えたいと思っているなら消えてもいい”
“逃げたいんだったら、逃げてもいい”
あの時は「逃げたい」とは言っていなかったけど、今の夕月華菜の言葉を聞いて、僕は思ったことをそのまま伝えることにした。
夕月華菜は黙って僕の言葉を聞いてくれている。僕はそのまま、あの時は思わなかったことも付け足した。
「…だからさ、一緒に逃げよう。夕月さんを1人にはしたくないし、僕も‥‥僕も、1人になりたくないから」
「一緒に…?」
「うん」
夕月華菜は、少しだけ俯いて考え込んでいたが、ゆっくり顔を上げると涙を流しながら大きく頷いた。
「一緒に、行きたい! 結さんとずっと一緒にいたい!」
「それって…」
「私、結さんが好き。だからさ、ずっと、私の傍にいてくれる?」
夕月華菜に告白されて、僕はすごく嬉しかった。
まだ僕の中で答えは出ていなくて返事はできなかったけど、ずっと夕月華菜の傍にいることだけは約束した。
それから僕たちは話し合って、夕月華菜のお父さんがいるという東京に行くことにした。
お父さんとは時々連絡をとっているそうで、「何かあったらいつでも来ていい」と言われているということだった。
僕たちは昼休みのうちに学校を抜け出し、それぞれ帰路についた。
夕月華菜を家に帰すのはとても不安だったが、今日は母親は家にいないらしいので、また後で電話をする約束をして別れた。
僕は家に帰りつくと、スマホで飛行機のチケットを取った。幸い、2人分の席はギリギリ空いていた。
すぐに夕月華菜に電話をかける。夕月華菜は数秒で電話に出た。
「飛行機のチケット取ったよ。明日の朝10時の便になったけど、大丈夫?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
「ホテルも予約したほうがいいかな? お父さんがいるなら大丈夫かと思ったけど」
「ううん。お父さんに連絡したら今すぐにでも来ていいってさ。今すぐはさすがに無理だよってね、ふふっ」
「そうだね」
夕月華菜が普通に笑っていて、僕は安心した。お父さんも、聞いている限りではいい人そうなので良かった。
「じゃあ、明日の朝8時、学校の最寄り駅に集合で」
「え、迎えに来てくれないの?」
「え…?」
「ふっ、うそうそ! また明日ね。……結さん、大好きだよ」
夕月華菜に大好きと言われて、僕が何も言えないまま電話は切れた。
耐性がないんだから不意打ちはやめてほしい。
僕はとりあえず3日分の荷物を旅行カバンに詰め込んだ。少ないかもしれないが、もし何か足りなくなったら向こうで買えばいいだろう。
そのまま、僕はできるだけ普通にいつも通り過ごし、早めに眠った。
13
12月1日の朝。
学校の最寄り駅の改札前は、会社へと向かうサラリーマンや、馴染みのある制服に身を包んだ学生たちでごった返している。
僕は壁際に寄って、英美とメッセージのやり取りをしていた。
「今日、学校休むね」>
<「え? 急にどうした? 体調悪いとか?」
「ううん、ちょっと家の用事で」>
最後に英美からスタンプが送られてきたのを確認して、僕はスマホの電源を切った。
腕時計で時間を確認する。時計の針は8時30分を指していた。
集合時間は8時なので、夕月華菜は30分遅れていることになる。どうしたのだろうか。
僕の心が不安で覆われていっていたとき、人混みの中から、キャリーバッグを引いた夕月華菜が現れた。
「ごめ~ん、遅くなった!」
「全然大丈夫。……その怪我どうしたの?」
僕は夕月華菜の顔を指さして尋ねた。夕月華菜の口の端が切れていて血が滲んでいたのだ。
「あー、大丈夫だよ。家出るときに喧嘩しちゃって」
「‥‥そっか」
絶対に大丈夫ではないとは思うが、無事に家を出られたのであれば心配する必要はないだろう。
僕は夕月華菜の手を引いて、空港へと向かう電車に乗った。
夕月華菜は何度もかかってくる電話を煩わしそうにしている。たぶん母親からだろう。僕が「電源切っちゃえば?」と言うと、「お父さんと連絡が取れなくなっちゃうからね」といって曖昧に微笑んだ。
十分程度で空港に着き、電車を降りた。そのまま人の波に乗って搭乗口へと向かう。
僕はあまり空港に来たことがないため、すぐに迷ってしまう。そんな僕を見た夕月華菜は僕の手を引いてぐんぐん進んでいく。僕は黙って夕月華菜の後を追う。あっという間に目的の場所についてしまった。
腕時計で時間を確認すると、今は9時30分だった。すでに搭乗は始まっていて、僕たちも列に並んだ。
「は~。ここに来るまでで疲れたよ」
「もう? 早いよ~!」
夕月華菜に笑われて、僕も思わず頬を緩める。夕月華菜と一緒にいると、不思議と安心して自然に笑うことができる。僕は夕月華菜を友人というもの以上に大切に思っていることに気付いた。
「結、一緒に来てくれてありがとう。学校サボらせてごめんね」
飛行機が離陸してしばらくすると、夕月華菜が眉を下げて申し訳なさそうにそう言ってきた。
僕は夕月華菜を安心させるために、優しい声を意識して答える。
「いいよ。それに僕、学校嫌いだし。逆にサボらせてくれてありがとう」
「あははっ、何それ!」
「それに、僕よりも南さんとか英美に謝らないと」
「あ、確かに!」
隣で話す夕月華菜はいつも通りの明るい笑顔を浮かべている。僕はそれを見て心から安堵する。
安心したら眠くなってきて、外を眺めながらゆっくりと瞼を閉じた。
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アナウンスの声で僕は目を覚ました。時間を確認すると、昼の1時になっていた。機内では、東京に到着したことを知らせるアナウンスが響いている。周りの人たちは続々と席を立ち、荷物を持って飛行機を降りていく。
隣を見ると、夕月華菜はすぅすぅと寝息を立てていた。
僕は名前を呼びながら夕月華菜の肩を揺らす。何度やってもなかなか起きない。
僕は仕方なく夕月華菜の分の荷物も片付け、2人分のリュックを持った。
そこでようやく目を覚ました夕月華菜は、僕を見ると目を細めた。
「結さ~ん」
「着いたから降りるよー、荷物は持っていくから先に降りてー」
「は~い」
「つーいたー!」
すっかり元気になった夕月華菜は、羽田空港から外に出ると、思い切り伸びをする。
夕月華菜は後ろを振り向くと、羽田空港の人の多さに飲まれて倒れかけながら何とかここまで来た僕を見て、大きな声で笑った。
「あはははっ! なんでそんなにフラフラしてんの! ほら行くよー!」
「笑うなぁ‥‥行くってどこに?」
「うーん…お父さんが迎えに来てるはずなんだけどなぁ‥‥あ、いた!」
夕月華菜が指さした先を見ると、一台の青い車がとまっていた。その前には1人の男性が立っている。おそらくあの人が夕月華菜の父親だろう。
僕は走り出した夕月華菜の後を追いかけた。夕月華菜は男性に抱きついている。僕が2人のもとに近づくと、小さくすすり泣く声が聞こえた。ここまで笑顔だったが、本当はずっと不安で苦しかったんだろう。僕は守ってくれる大人のもとに辿り着いた安心感でため息を吐いた。
夕月華菜が泣き止むと、男性が微笑んで僕に声をかけてきた。その笑顔は夕月華菜にそっくりだった。
「華菜と一緒に来てくれてありがとう。君が有栖結さん、で合ってる?」
「はい。初めまして、有栖結です」
「初めまして、華菜の父親の夕月駿です。よろしくね」
父親──駿さんは、笑顔も話し方も全部優しい。包み込まれるような安心感があった。
「とりあえず家に行こうか」
そう言って僕と夕月華菜を車の後部座席に乗せて、出発した。
数分で大きな一軒家に到着し、家の中に案内された。
家の中は全体的に広く、リビングはモノトーンで揃えられていてとてもおしゃれだった。
僕が使っていいと案内された寝室には、大きなベッドがあった。大人2人で寝ても余裕があるくらいだ。
僕が荷物を片付け終えて1階へと戻ろうとすると、リビングから夕月華菜と駿さんの話し声が聞こえてきた。
どうやら夕月華菜が今まであったことを駿さんに話しているようだ。言葉に詰まる夕月華菜を慰める駿さんの声も聞こえる。
「‥‥そっか、辛かったな。ごめんな、気付いてやれなくて」
「ううん。今日ここに来れただけでよかった」
しばらく間があり、駿さんの真剣な声が聞こえた。
「華菜。これからはお父さんと暮らさないか? 近くには今すぐに転校できる高校もあるし。どう、かな…?」
「それは…」
僕はそこで、慌てて2階へと戻った。
駿さんの提案に対する夕月華菜の返事を聞くのが怖かった。
夕月華菜がここで暮らすことになると、当然、簡単には会うことができなくなる。僕の毎日から夕月華菜がいなくなることを想像すると、すごく不安になった。元の生活に戻るだけなのになぜか、それだけは嫌だった。
「僕、夕月さんを…」
そう呟いたところで、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。はい、と返事をすると、扉が開いて夕月華菜が顔を出した。夕月華菜は晴れやかな笑顔を浮かべている。
「結さん、ちょっとお父さんと出かけてくるからゆっくりしてて」
「あ、うん、わかった」
僕が答えると夕月華菜は戻っていった。ドアの奥からは鼻歌が聞こえてくる。
鼻歌が聞こえなくなったとき、僕は、自分の心臓がありえないくらいに速く動いていることに気付いた。思い出した夕月華菜の笑顔が、とてつもなく愛おしくて‥‥
「はぁ~」
僕は、どうしようもないくらいに夕月華菜のことを好きになっていた。
夕月華菜の笑顔が、あの明るさが、何よりも大好きで。ずっと傍にいたくて、いてほしくて。僕だけのものになってほしくて。離れるなんて絶対に嫌で。
経験したことのない自分の気持ちに戸惑いながら、スマホの電源を入れた。スマホはすぐに起動して、たくさんの通知を画面に表示する。通知の中から英美のメッセージを選んでタップする。
今は学校がちょうど終わったくらいの時間で、英美は部活に行っている可能性もあったが、とりあえずメッセージを送った。
「英美、今時間ある? 部活かな?」>
しばらく待っていると、ブブッとスマホが震えた。
<「今日は部活休みだよ! どうしたの?」
何から話すか迷ったけど、とりあえず今の状況を説明することにした。もちろん、夕月華菜の母親のことは隠して。
「で、今東京にいる」>
<「そんなことになってたんだ。なんで言ってくれないの!」
「だって、英美を巻き込みたくなくてさ」>
「それで、本題はここからなんだけど」>
<「え、なに?」
「僕さ、夕月さんが好きみたいなんだ」>
僕はどんな反応が返ってくるかとドキドキしながら返事を待つ。すぐに英美からメッセージが届いた。
<「はぁ、やっと気付いたか」
「え?」>
僕は英美のまさかの言葉に目を見開いた。
<「え?じゃないよ! 私はずっと気付いてました! で、どうするの?」
「どうするって…」>
<「本気で好きなら好きって伝えたらいいじゃん。夕月さんから告白されたんでしょ?」
英美のメッセージを見て、僕は思い出した。東京に来ることを決めたあの日、夕月さんに告白されたことを。
今の今まですっかり忘れてしまっていた。
「伝えるってどうやって…?」>
<「そんなのはっきり伝えるしかないよ。」
僕が何と答えるべきか考えていると、英美から次のメッセージが届いた。
<「私、忙しいからもう抜けるね! 頑張って! おやすみ!」
僕はスマホの画面を消すと、ベッドに倒れこんだ。
夕月華菜たちが帰ってきたのか、下から話し声が聞こえてくる。それでも僕は外に出ていく気になれず、夕飯の時間に駿さんが呼びに来るまでベッドに横になっていた。その間、ずっと夕月華菜のことを考え続けていた。
夕飯を終えて、お風呂にも入らせてもらって、部屋に戻る。
スマホを確認すると、一件の不在着信の表示があった。スマホを操作して留守電メッセージを聞く。2年前に付き合っていた男の子からの電話で、「会いたい。留守電聞いたら折り返して。」というメッセージだった。
僕は大きなため息を吐いて、スマホをベッドに投げつける。
自分の気持ちの変化と元カレの事。悩みが膨らんでストレスが溜まっているのを感じる。苦しくて、消えてしまいたい。そんな気持ちに覆われて体も心も重くなっていく。
気分転換にベランダに出て、夜空に浮かぶ月を見上げる。街が明るいせいで、地元で見る月よりも暗く霞んで見えた。
体と心が沈んでいく感覚に身を任せて深く息を吐いた。
14
**華菜side**
結さんと共に東京に来てから3日目。
1日目はお父さんと買い物に行き、2日目は一日中家の中で過ごした。結さんはというと、お父さんとはすぐに打ち解けたのだが、ほとんどの時間を2階の部屋で過ごしていた。なぜか聞いてみると、東京の人の多さにやられたから、ということだった。そんなところも結さんらしくて好きだ。
3日目の朝、珍しく結さんから「出掛けない?」と言われた。
私は二つ返事でOKし、うきうきで準備をした。
お父さんに車で送ってもらって、私と結さんは今、渋谷に来ている。かの有名な交差点で人波にのまれている。
「わ~はじめて来た! 広いし人多い!」
私がはしゃぎながら横を見ると、結さんは私を見て微笑んでいた。
「夕月さんが楽しそうでよかった。せっかく東京まで来たんだから楽しまないとね」
「…結さん、ありがとう」
「ううん。あそこ行こ」
そう言って歩き出した結さんについていくと、交差点と同じく有名なわんちゃんの像が見えた。
「へぇ~あんな感じなんだね~。写真撮りたい!」
「写真‥‥人多いから遠目からでもいい?」
「全然いいよ~」
私と結さんは像から少し離れたところから写真を撮る。
その結果、像は後ろの方に小さくしか写っていなかったけど、私は結さんと写真を撮ることができただけで十分だった。
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私たちは渋谷駅に入って、次の目的地へと向かった。
数分で、目指していた原宿駅に到着する。そのまま駅から出て有名な通りへと向かう。東京を観光しながらわかったのは、東京は有名な場所ばかりで、その場所には必ず色んな国籍の人々がひしめき合っていること、だった。
原宿も例外ではなく、周りの人に押されながら歩くことになった。
「もう…。人多すぎて嫌になる」
「だねぇ。あ、あそこ行きたい!」
「え~どこ~?」
結さんはフラフラの状態で何とか私の後をついてくる。そんな結さんが面白くて、私は頬が痛くなるほどに笑い続けた。
私たちは、ファンシーなお店や、おしゃれなヴィンテージの洋服のお店、可愛らしいカフェなどに入って全力で楽しんだ。結さんはやっぱりヘロヘロだったけど、「夕月さんが行きたいところに行けばいいよ」と言ってどこまでもついてきてくれた。
通りを抜けると、私は結さんに声をかけた。今日一日、私の願いを叶えて楽しませてくれたことに対する感謝と、最後のお願いを伝えるために。
「結さん」
「ん?」
「今日、誘ってくれてありがとう。疲れちゃっただろうけど、私についてきてくれてありがとう」
「ふふっ。うん、いいよ。僕も楽しかったしね」
「結さん、あと1つだけ、行きたいところがあるんだけど」
結さんは、まだあるのかというような、呆れと驚きを混ぜた表情を浮かべる。だけどすぐに、目を細めて優しく微笑んだ。
「うん、どこ?」
「歌舞伎町」
「……は!? それは…!」
結さんは私の方に僅かに身を乗り出して、口をあんぐりと開けた。想像通りの反応に、私はくすくす笑ってしまう。結さんは少し恥ずかしそうにして元の体勢に戻る。
「歌舞伎町って、…僕たち高校生だよ?」
「あははっわかってるよ! ホストクラブに行くとかじゃなくて、ただ通りを見てみたいだけ。今の時間だったら人少ないだろうしさ」
私が訴えると、結さんは渋々といった感じで頷いた。
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私たちは再び駅へと戻って電車に乗る。車窓から見える空は、綺麗な橙色に染まりつつあった。
新宿駅で降りて駅を出る。スマホで道を調べながら歩いていくと、明らかに周りと雰囲気の違う場所に辿り着いた。そこの入口には"歌舞伎町一番街"と書かれた看板がある。ここが歌舞伎町で間違いないようだ。
「ほんとに行くの…?」
結さんが不安そうに揺れる瞳で私の目を見つめてくる。
「行くよ。さっと行ってさっと帰ってくる」
そう言って、私は結さんの手を引いて歩き出した。
テレビで見たことがあるものそのままで、至る所にゴミが落ちていたし、まだ明るい時間だというのに道端でぐっすり眠っている人もいた。
「結さん」
私が街の景色を眺めたまま呼びかけると、結さんは「なに?」と呑気な声で返してくる。入る前はびくびくしていたのに、今は余裕を取り戻しているようだ。
「私がさ、この街で暮らしたいって言ったら、結さんはどうする?」
「え…? どういうこと?」
「みんながみんな自由ってわけじゃないんだろうけどさ、あの人みたいに、自分の好きなところで好きなように過ごせる、そんな風に生きてみたいの」
酔いつぶれて眠っている人を指さしながら言うと、結はその人のことをじっと見つめて固まってしまった。私は結さんに追い打ちをかけるように最後のセリフを呟く。
「……一回どん底まで堕ちてみてもいいかなぁ、なんて…」
結さんは、私の方に視線を動かして、何と言っていいかわからないというような表情を浮かべた。
ずっと、私の目を見つめて黙り込んでいる。
数分間続いた沈黙の時間。最初にそれを破ったのは結さんだった。
「僕は、どこまでも夕月さんについていくよ。だけど、だけど、‥‥もう少しだけ、一緒に頑張ってみない?」
そう訴えかけてくる結さんは、今にも泣きそうに顔を歪めていた。その顔を見て、私は胸が痛くなった。途方もない悲しみに心が塗りつぶされていった。
「何を頑張れと? 私はもういっぱい頑張ってきた。何があっても逃げずにやってきた。それでも、駄目だったの。‥‥もう私には居場所なんてないんだよ」
私はそう言って俯いた。悲しみと、怒りと、絶望と…。色々な感情がごちゃ混ぜになって、逆に冷静になっている。そのはずなのに、視界が滲んで、目からは涙が溢れ出していた。
結さんの前から逃げ出したくて、私は結さんに背を向けて走り出そうとした。
一歩目を踏み出した時、手首を強く掴まれて、そのまま優しい温もりに包み込まれた。
耳元で、結さんのすすり泣きが聞こえてくる。私を抱きしめる腕は小さく震えていて、頼りなくて。
だけど私は、ここから逃げ出せなかった。私を包む大好きな温かさだけが、今の私を支えていた。
「僕、夕月さんが好きだよ。だからいなくならないでよ。僕から離れないでよ! ずっと傍にいてよ!!」
今までにないほどの力強い結さんの声に、私は体の芯が震えるのを感じた。同時に、冷たくなっていた心が少しずつ熱を取り戻していくのを感じる。
体を離して結さんの顔を見ると、結さんは頬を涙で濡らして優しく微笑んでいた。
「夕月さん、答えるの遅くなってごめんね。僕でよかったら、付き合ってください」
結さんの言葉を聞いて、私はその場に崩れ落ちそうになった。結さんが「わっ!」と声を上げて慌てて私の体を支えてくれる。
「大丈夫!?」
「うん、大丈夫」
私を見つめる結さんのことが、誰よりも、何よりも、大好きだ。
結さんも私のことが好きで、大切に想ってくれている。
それだけで私は、この生きづらい世界でも生きていける気がした。
この時の私たちは、それぞれの未来に悲劇が待っていることなんて、知るよしもなかった。
15
東京で過ごし始めて7日が経った。
僕と華菜は今、華菜の父親である駿さんに「大事な話がある」と呼び出されて、リビングで駿さんと向かい合っている。駿さんが言う"大事な話"が何のことかは、ある程度見当はついている。
隣に座る華菜は緊張しているようで、体が強張っていた。その表情も少し硬いように見える。
僕が華菜を安心させるように手を握ってあげると、僅かに表情が和らいだ。
駿さんは、下唇を湿らせてから口を開いた。
「華菜、結さん。これからのことについて話し合おう。今、大丈夫? 話せる?」
「うん、大丈夫」
華菜が答えた後、駿さんは僕の方に視線を動かした。僕は駿さんの目を見て、しっかりと頷く。
「これから…そうだな。初日にも言ったけど、俺は、ここで華菜と一緒に暮らしたいと思ってる。‥‥でも俺の気持ちじゃなくて、華菜の希望を最優先にしたいって考えてる。‥‥華菜はこれからどうしたいか、改めて教えてくれるか?」
駿さんの言葉を聞いた瞬間、僕の心臓は強く脈打った。
話の内容は予想通りのものだったので、驚きはしなかった。
だけど…。
あの日、ここに来た最初の日。華菜と駿さんは2人で同じことを話していた。駿さんが同じようなことを華菜に尋ねて、華菜が答えようとした。
僕は、…華菜の答えを聞く前に逃げだした。
華菜の返事を聞くのが怖かったのだ。もし、ここで暮らすことになれば、華菜とは離れ離れになってしまう。僕の日常から、華菜の笑顔が消えてしまう。そんな未来を想像するだけで大きな不安に飲み込まれそうになった。
だけど今の僕はあの日とは違う。華菜の答えがどんなものでも、僕はちゃんと受け入れる。その覚悟をしたうえで僕はこの時間に臨んでいた。
駿さんの顔を真剣な表情で見つめる華菜の横顔を一瞬だけ見て、僕は前を向いた。
「私は…」
華菜は一度深く呼吸をして、再び言葉を紡ぎだす。
「私は、結とずっと一緒にいたい。ずっと結の傍にいたい。だけど、……お母さんとは一緒に暮らせない。一緒にいたくない。だからお父さん、わがままかもしれないけどお願いしたいの。……向こうで一緒に暮らしてください。私を守ってください」
華菜はそのまま深く頭を下げた。
華菜の答えに僕の涙腺は崩壊しそうになったけれど、下唇を強く噛んでなんとか涙を堪え、僕は勢いよく頭を下げた。華菜の願いが叶うように、ただそれだけを祈りながら。
頭を下げた先で、駿さんが息を吐きだす音が聞こえた。直後、駿さんは「ふっ」と短く笑った。
「顔上げて」
駿さんにそう言われ、華菜と僕は同時に顔を上げる。僕たちの前に座る駿さんは、呆れたような、それでいて少し嬉しそうな、そんな笑顔を浮かべていた。
「しょうがないなぁ。‥‥わかった。俺も向こうに行くよ。そしてちゃんと華凛と話す。ふっ、華菜は結さんのことが大好きなんだな。ふはっ! 結さん泣いてるし。いいなぁ、若者は!」
「え? …ほんとだ、結泣いてる!」
2人に言われて、僕はようやく自分が泣いていることに気付いた。いつの間にか、堪えていたはずの涙が溢れ出してしまったようだ。
自分の顔が熱くなっていくのを感じる。きっと恥ずかしさで顔が真っ赤になっているだろう。
華菜はそんな僕を見て、太陽のように明るく笑った。華菜が心の底から笑っているところを見たのは久しぶりな気がする。華菜の笑顔は、やっぱり何よりも愛おしかった。
「でも、家はどうするんですか?」
僕が気になったことを口にすると、駿さんは「大丈夫だよ」と言って微笑んだ。
「華凛と別れた後、しばらくは向こうに住んでたんだ。その時の家を一応残しといたからそこに住むよ」
「そうだったんだ!? 出て行ってから一回も連絡くれなかったくせに!!」
「ごめんって!」
そう言ってじゃれあう2人の様子を眺めながら、僕は「ここに来てよかった」と感じていた。
僕たちは明日の夕方、ここを出ることになった。
駿さんは飛行機のチケットを取ってくれただけでなく、「感謝の気持ちだよ」と言って行きの飛行機代も僕に渡してきた。僕は最初は遠慮したが、駿さんの押しに負けて渋々受け取った。
---
「昨日寝る前にふと思ったんだけどさ、…2人って付き合ってる?」
朝食を食べているときに聞こえてきた駿さんの台詞に、僕は口に含んだお茶を見事に吹き出した。ごめんなさいを連呼しながら机の上を拭いていると、隣に座る華菜の口からさらに衝撃の言葉が飛び出す。
「うん、付き合ってるよ」
「え!? いっ、ちゃうん、だ…」
「あはっ! いや、結がお茶を吹き出したせいで思いっきりバレちゃったからね」
「…確かに」
僕は派手に反応してしまったことを後悔しながらも、「言っちゃってもいいか」と思っていた。隠れてコソコソ付き合っていくのは良い気分じゃないだろうし。
「まぁ、華菜にも特別な人ができて良かったよ。結さん、華菜をよろしくね」
「あ…こちらこそ」
「はい、早く食べて! 2時に出るんでしょ? もう10時ですよ~!」
華菜が食器を片付けて2階へと向かう後ろ姿を見送りながら、荷物を全く片付けていなかったことに気付いて、僕は慌てて残っていたご飯をかきこんで席を立った。
部屋に戻って着替えなどの荷物をキャリーバッグに詰め込む。
終わったころには陽が高く昇っていて、時間を確認すると12時になっていた。
外出用の服に着替えて、洗面所で歯を磨いて髪をセットする。諸々の準備を終えてからは小説を読んで時間をつぶした。
家を出てからは公共交通機関で空港に移動した。駿さんの車は、東京に戻ってくるまでは友人に貸すことにしたそうで、昨日のうちに友人の家に移動させたらしい。
羽田空港で帰りの飛行機に乗り込む。華菜と駿さんは席につくなり映画を見始めた。僕も誘われたけれど、父娘2人の時間を少しでも確保してほしかったし、睡魔が襲ってきていたので断った。
華菜と駿さんはすごく幸せそうで、僕は安心感でいっぱいになりながらその様子を見守っていた。
16
「…う~ゆう~」
「ん…」
ゆっくりと目を開けると、僕の顔を覗き込む華菜と目が合った。どうやらいつの間にか眠っていたようだ。眠気がすっかりなくなっていた。
「着いたよ」
「うん」
寝ぼけ眼をこすりながらリュックを背負う。
「おはよう、結さん。…夜だけど」
「おはようございます。…夜ですね」
飛行機の窓からは、陽が落ちて暗くなった空が見える。
空港から出ると、僕は「うーん」と大きく伸びをした。すると、隣から小さな笑い声が聞こえた。
「ふふっ。私と同じことしてる」
そういえば、東京について空港から出たとき、華菜も同じことをしていたような。思い出して、笑みがこぼれた。
「よし。とりあえず家に行こうか。あ、俺の家な」
「びっくりした。いきなり戻らされるかと思った」
駿さんはしっかりしているようで少し抜けているところもあって、そんなところがかわいらしい。
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地下鉄で移動すること1時間。
久しぶりの地元の地下鉄、地元の空気感は、僕の心を落ち着かせてくれた。
駅から数分歩いて到着した駿さんの家は、東京とは違ってマンションの一室だった。
「ここはちょっと狭いかも。ごめんね」
「いえ、大丈夫です」
僕はすぐに自分の家に戻ろうと思ったのだが、駿さんに誘われるままに少しだけお邪魔することにした。
リビングに案内されて革製のソファに座る。とても座り心地がよくて気持ちよかった。
僕と華菜が席についたことを確認すると、駿さんは真面目な顔で話し始めた。
「俺、今から華凛の家に行って話してくるけど、2人はどうする?」
「私はここにいるけど、そしたら1人になる?‥‥結、」
「あ、じゃあ駿さんが戻ってくるまでここにいます」
「そっか。ありがとう、結さん」
駿さんは小さなバッグに最低限の荷物を入れて、すぐに玄関に向かった。
昔のことを思い出したのか不安そうな顔をした華菜を見て、駿さんは優しく微笑んで「大丈夫。ちゃんと戻ってくるよ」と言って家を出て行った。
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華菜と並んでソファに座る。しばらく2人してぼーっとしていたけど、華菜は何かを思い出したようにぱっと立ち上がってリュックを漁り始めた。中から何かを取り出して戻ってくる。華菜の手にはスマホが握られていた。
「奈桜のメッセずーっと無視してたから返信しないと」
「あー、僕も英美に返事しないと。…ぜっったい怒ってる」
ズボンのポケットからスマホを取り出して電源を入れる。起動するとすぐに、メッセージの通知が何件も届いた。ほとんどが英美からのメッセージで、読んで返信するのに時間がかかりそうだったので後回しにする。他は母親と南さん、そして……元カレからのものだった。
母親からのものは単なる連絡事項だったので、スタンプだけを返した。
南さんからのものは、「華菜を泣かせたら許さないからね」というメッセージ。歌舞伎町で泣かせてしまったものの、付き合ったのでプラマイゼロだろうと考え、「大丈夫」というスタンプを送信した。
華菜に南さんからのメッセージを見せると、「奈桜は私のこと大好きだな~」と言って笑っていた。
華菜には、心配するメッセージが何件も届いていて、南さんが華菜を大切に思っていることが伝わってきた。
英美からは合計20件のメッセージが届いていた。要約すると、「無視するなんてひどい! いつ帰ってくるの? 夕月さんとはどうなった?」というもの。僕は、簡単に一文にまとめて「ごめん。今日帰ってきました。無事付き合いました」と返信した。
残ったのは元カレからのメッセージ。
「俺が悪かった。もう一回やりなおそう」という内容だった。
そのメッセージをじっと見つめていると、華菜から声をかけられた。
「どうしたの? すっごい険しい顔してるけど。なんかあった?」
どうやら無意識に険しい表情になっていたみたいで、華菜が心配げな顔で僕を見つめてくる。
僕はスマホの画面を閉じて、「大丈夫だよ」と答えた。
しばらくして駿さんが帰ってきた。
華菜の母親と話し合って、親権を駿さんに譲ること、華菜とはもう会わないことを約束してくれたそうだ。それに関する手続きは後日、ということになったらしい。
華菜は安心したように深く息を吐いて、ソファに倒れこんだ。
その後すぐに寝息を立て始めた華菜に、僕と駿さんは2人で小さく笑いあった。
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僕は自分の家に帰りつくと、すぐにベッドにダイブした。
明日からは普通に学校に行くつもりだが、今はその準備をする余裕もないくらいに疲れ果てている。
準備は明日に回して、とりあえず今日はご飯とお風呂だけ済ませて寝ることにした。
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翌日。
僕が教室に入ると、近くのクラスメイトたちと話していた英美が、机の間を通り抜けて僕のもとへ走ってきた。教室のドアの前で捕まって僕の席へと連行される。
僕が教科書やノートの準備をし始めると、英美は1つ前の席にどかっと座って、頬をふくらませて僕をじっと見つめてきた。怒っているのだろうが全く怖くなく、逆にいつも以上に可愛くなっている。
「なに?」
「なに?じゃないよ! 私と奈桜がどんだけ心配したと思ってんの!? 大変だったんだろうけどさ、メッセ無視するのはひどくない!? ね~え~!」
「ごめんね。急に決まって、向こうついてからも色々忙しかったんだよ。‥‥てか、ん? "奈桜"…?」
「あ…」
僕が言うと、英美は気まずそうに顔をそらした。「やってしまった…」という顔をしているのが面白くて、僕は「ん?どした?英美?」と英美をからかう。
「もう…。2人がいない間、こっちではなんにもなかったと思う?」
「え、それって…」
「‥‥奈桜と、付き合うことになりました」
「え~! おめでと~! そこくっついちゃうか! はぁ~」
「私のことなんてどうでもいいから! 結も夕月さんと付き合ったんでしょ! やったじゃん!」
頬をほんのり紅く染めて早口でまくし立てる英美。照れ隠しで早口になっているとわかって、僕は思わず吹き出した。
「ぷっ照れちゃって~。付き合ったよ、相談した2日後にね」
「よかったね。頑張ったじゃん。よしよし」
英美はそう言って、僕の頭を撫でてくれる。僕は英美のこういう優しいところが大好きだ。‥‥もちろん、友達として。
英美と2人で話していると、南奈桜が近づいてきた。いつも僕を睨んできていたのに、今日は穏やかな表情をしている。
「奈桜~。結、夕月さんと付き合ってるって!」
「うん、知ってる。華菜から聞いた。‥‥私たちも付き合ってるから」
「うん、英美から聞いたよ」
英美は南奈桜が来てから一段とニコニコになっている。南奈桜もどこか嬉しそうだ。
「私嫉妬深いから、あんまり英美と話さないでね? で、華菜を泣かせたら…ね?」
「はい、わかってます」
「こらこら、奈桜~?」
「はいはい、結には優しく、ね。‥‥で、華菜は?」
「うーん…今日は来ないかもなぁ」
そう言って周りを見渡していると、教室のドアがガラッと開いた。そこからニコニコ笑顔の華菜が教室に入ってきた。久しぶりの華菜の姿に気付いたクラスメイトたちが、「おはよ~」「久しぶり!」「元気だった?」などと声をかけている。それにひとつひとつ答えながら、華菜は僕たち3人のもとへと向かってきた。
そのまま華菜は僕に抱きつく。いわゆるバックハグだ。
「結、おはよ」
「ん。おはよう」
「はいそこー! イチャイチャしてないで、私たちに言うことは?」
南奈桜の言葉に、華菜は数秒僕の顔を見つめた後、声を上げた。
「久しぶり!」
「違うよ! まぁいいけどさ。…で、私と英美、付き合い始めたから」
南奈桜がそう言うと、華菜は僕から離れて南奈桜に詰め寄った。
「え、どういうこと!? 聞いてない! え、英美ちゃんほんと!?」
「ほんとだよ」
「え~おめでと~!」
キーンコーンカーンコーン
4人で話していると、朝のホームルームの始まりのチャイムが鳴った。僕以外の3人や他のクラスメイトたちが自分の席へと戻っていく。
数秒後、教室に担任の木元先生が入ってきて、ホームルームが始まった。
久しぶりに4人で集まることができて、いつもと変わらず普通に話すことができて良かった。それぞれの関係性は変わったけれど、全てがいい方向に変わっていてただただ嬉しかった。
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クリスマスには華菜の家に集まって、駿さんも含めた5人でクリスマスパーティーをした。
プレゼントの交換では、華菜にクリスマス仕様のスノードームをあげて、華菜からは三日月形のテーブルライトを貰った。
英美は南奈桜にブックカバーを、南奈桜は英美に星柄のマフラーを、それぞれプレゼントした。
駿さんは、全員に四つ葉のクローバーのキーホルダーをプレゼントしてくれた。
駿さんに華菜のことを聞くと、色々な手続きもすべて終わって、これからは落ち着いて過ごせるだろうと言ってくれた。「華菜のこと、これからもよろしくね」と言われ、僕は華菜をずっと傍で見守り続けることを誓った。
今まで以上に沢山の出来事があった一年が、もうすぐ終わる。
18
1月も半ばに差し掛かった頃。
久しぶりにお母さんから連絡がきた。
ちゃんと話し合って和解しよう、という内容の長文のメッセージ。
それを見て恐怖心を抱かなかったと言ったら噓になる。だけど冷静になって考えると、ここまで育ててきてくれたお母さんと絶縁状態が続くのは、やっぱり嫌だった。できることならしっかり思いをぶつけて話し合いたい。そういう気持ちで、私はお父さんに内緒でお母さんに返事をした。
「わかった、ちゃんと話そう」>
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お母さんから連絡がきた日の3日後、私は最近までお母さんと2人で暮らしていた家の前に立っていた。
今、私の心は不安と恐怖でいっぱいになっている。緊張しすぎて吐いてしまいそうだ。
私は3度ゆっくり息をした後、意を決して目の前のインターホンを押した。
すぐに機械越しのくぐもった声が聞こえ、私は「華菜です」と短く答える。私の声は、その一言だけでわかるくらいに震えている。
数秒待つと、家の中から足音が聞こえてきて、玄関の扉が開いた。お母さんが顔をのぞかせ、私を笑顔で迎え入れてくれる。家の中は前と変わらず、いい匂いで満たされていた。
「華菜、久しぶり」
リビングで私と向かい合って席につくと、お母さんは小さな声でそう言った。
「久しぶり。さっそく本題に入ろう。お父さんに内緒で来てるからあんまり長くはいられないんだ」
「そっか。……うん、そうだね」
部屋の中が沈黙で満たされる。私もお母さんも、相手が話しだすのを待っている。
少しの音も聞こえない静かな時間に耐えられなくなった私は、唾を飲み込んでから口を開いた。
「お母さん。私は、お母さんと一緒に暮らすつもりはない。でもね、もう会いたくないってわけじゃなくて、その‥‥月に一回とかで会って話すくらいは、いいかなって」
私が自分の考えを伝えると、お母さんは目を潤ませて、僅かに頬を緩めた。
「うん。ほんとはね、会っちゃダメなんだ。メッセージを送った後も、何回も「やっぱり大丈夫」って言おうとした。だけど、華菜の優しさに甘えてここまで来ちゃった。……だから私は、何も言わない。華菜の気持ちを優先する」
穏やかな表情で私を見つめるお母さん。もう二度とこんな顔を見ることはないと思っていたから、前みたいに話すことができて良かったと思う。
「じゃあ、これから会うってことをお父さんに話して、また連絡するね」
私はそう言うとバッグを持って立ち上がろうとする。
するとお母さんは、勢いよく身を乗り出して私の腕を掴んできた。力が強くてすごく痛い。お母さんは、般若のような顔で私の方を見ている。私の心は一気に恐怖で支配された。
「お母さん…はなしてっ」
「なんでいちいちあの人に言わないといけないの!? 私が華菜と会うことを止める権利があの人にある? ないよね!?」
私の腕を掴む手の力がどんどん強くなっていく。痛みで涙が浮かび、視界が歪む。
お母さんは私の方にじりじりと迫ってきて、私は後退りをする。私が一歩下がれば、お母さんは一歩前に進む。
ドンッと音がして、背中が壁にぶつかった。ついに私は、壁際まで追い詰められてしまった。
「やめてよっ!」
「華菜まで私を捨てるのね? 結局はあの人の方が好きなんだ!? ああああああああ!」
ボコッという鈍い音が聞こえた。同時に頬を激しい痛みが襲う。私はその場に倒れこんだ。
顔を上げてお母さんを見ると、目の前には、鬼が、いた。
恐怖にさらされ続けたあの頃、毎日見ていた憎悪の塊。お母さんだけど、お母さんではない何か。
お腹を蹴られ、ゴホッと唾液を吐いた。
お母さんが馬乗りになってきて、私の顔を殴り続ける。口の中に血の味が広がる。
何度も何度も殴られて、痛みという感覚がなくなってきた頃。お母さんは私の首に手を当てた。そのままその手に力を入れる。首が苦しくなって、一気に呼吸ができなくなる。ギュッと瞼を閉じる。だんだんと意識が遠のいていく。
このままじゃ、殺される……
「おと、さ…」
その時、首に当てられていた手が消えた。私は涙を浮かべて咳き込んだ。
「華菜! 大丈夫か!?」
誰かの、しっかりとした太い腕で体を支えられる。
視線を少し上に向けると、滲む視界の中で、目を見開いて私を見つめるお父さんの顔が見えた。
「お父さん…?」
「よかった…。とりあえず帰るぞ! 立てるか!?」
「うん…」
私はお父さんに支えてもらいながら立ち上がって、リビングを出た。
「待ってよ! 華菜は私を選んでくれたの! 連れて行かないで!」
お母さんが慌てた様子で追いかけてきて、お父さんの腕に縋りつく。お父さんはお母さんを睨みつけ、「うるさい!」と言って突き飛ばした。
お父さんの車に乗って、家まで戻ってきた。お父さんに手を引かれて自室へと連れられる。ベッドに寝かされてお父さんの方を見ると、心配そうに眉を下げているお父さんと目が合った。
「なんで華凛のところに行ったんだ?」
「‥‥ごめんなさい」
「怒ってるんじゃない。何があったのか聞きたいだけだよ」
そう言ってお父さんが私の頭を撫でてくれる。私はゆっくりと、事の次第を話し始めた。
「そうか。‥‥もう連絡が来ても返事するな。それでもまた何かあったらちゃんと相談しろ」
「はい…」
私が目を伏せて答えると、お父さんは少し笑った。
「もういいから。とにかく、無事でよかった」
そう言い残してお父さんは部屋を出て行った。
私はひどく疲れていて、意識が遠のくのに身を任せて瞼を閉じた。
---
目が覚めたときには、すでに窓の外は暗くなっていた。
私は枕元のスマホを手に取って結に電話をかけた。結はすぐに出てくれた。
「はい、もしもし」
電話越しの、落ち着いた結の声を聞いたら、涙が溢れ出してきた。何度目を拭っても涙は全然止まらない。電話の奥から結の慌てたような声が聞こえてきて、私は思わず「ふふっ」と笑った。
「華菜、大丈夫? なんかあった?」
「うん。まぁちょっと、ね…」
私は言葉に詰まりながらも、ゆっくりと、少しずつ、今日の出来事を結に伝えた。
「……そんなことがあったんだね。怪我は大丈夫? やっぱり痛い?」
結にそう聞かれて、お母さんに殴られた頬を触る。だいぶ腫れていて鋭い痛みが走った。
「痛い…。腫れててひどい顔になってるから、学校は行けないかな。ごめんね、結」
「全然大丈夫。僕がそっちに行くよ。‥‥あ、変な意味じゃなくて! あの、その、授業のノートとか配布物とかを届けるために!」
私は何も言っていないのに、勝手に言い訳を始めた結が可愛くて、笑みがこぼれる。
それから少しだけ結と話して、「おやすみ」と言って電話を切った。
---
それからは、結が家に来てくれるようになった。結は最初、私の顔を見て目を見開いていた。でもすぐに「痛いよね…」と言って心配してくれた。やっぱり結はずっと変わらずどこまでも優しい。
家庭のことを何も話していない奈桜と英美ちゃんには、体調不良でしばらく休むと伝えた。嘘をつくのは心が痛んだが、無駄に心配をかけるのは嫌だったので仕方がないと諦めた。
怪我が早く治ることを願いながら、私は毎日笑って過ごした。
19
2月に入り、2年生ももう残り2か月を切った。クラスの陽キャたちはバレンタインについての話で盛り上がっている。そのイベントの良さが、僕には全く理解できない。
華菜が学校に来なくなってからは、僕と英美、そして南奈桜の3人で過ごすことが多くなった。
恋人どうしの2人と一緒にいるのは色々と気を使ってしまうのだが、それでも1人でいるときよりも楽しかった。華菜が隣にいないのはやっぱり寂しかったけど。
僕が1人、いつも通り屋上で昼食を食べていると、後ろのドアが開く音がした。僕は心からの笑顔を浮かべて後ろを振り返る。そこには、晴れやかな笑顔で僕の方に向かって歩いてくる華菜がいた。
華菜は今日、やっと学校生活に復帰した。朝メッセージが届いたときには飛び上がって喜んだし、英美に「昼食を一緒に食べよう」と誘われたのをわざわざ断って1人でここに来た。
「結! ごめん、待った?」
「ううん、全然待ってないよ。今来たところ」
「あははっ。これ普通デートでするよね」
「そうだね」
隣に並んで一緒に昼食を食べる。僕は購買の焼きそばパンで、華菜は駿さんお手製の弁当だ。
あんなにかっこよくて優しいのに、料理もうまいなんてずる過ぎる。
僕がそんなことを悶々と考えていると、ズボンのポケットでスマホが振動した。
ポケットから取り出して画面を開くと、一件のメッセージが目に入る。
そのメッセージを読んで内容を理解したときには、僕はすでに走り出していた。後ろで華菜が何か言っているが、僕はそれすらも無視して屋内に戻って階段を駆け下りる。
全力で走り続けて辿り着いたのは体育倉庫。
砂埃で汚れた扉をそっと開け、恐る恐る中に入る。倉庫の中は薄暗く、様子を窺うことはできない。じっと暗闇を見つめて耳を澄ませていると、後ろから足音がした。
ばっと勢いよく振り返る。
そこには、外から差し込む光の中で、気持ち悪い笑みを浮かべる元カレ──翔馬がいた。
恐怖で速くなっている心臓の鼓動を隠すように、僕は翔馬を睨みつけた。
「これ、なに?」
翔馬は「ふっ」と短く笑って口を開く。
「なにって、そのまんま。結がここに来なかったら可愛い恋人さんを奪うつもりだったよ。結、恋人を守るなんてかっこいいなぁ。‥‥らしくねぇけどな」
一瞬で近づいてきた翔馬に突き飛ばされ、僕は尻餅をついた。お尻に鈍い痛みが広がっていく。
「なんなの? 僕たちもう終わったんだよ? 最近何回もメッセージ送ってきてさ。しつこいよ」
「あ?」
翔馬は低い声を出した。聞いたことのない声に、一気に後悔と恐怖に襲われる。
「恋人さんは奪わねぇけど…」
翔馬は僕を押し倒し、僕の耳元で囁いた。
「お前は奪う」
そのままキスをされそうになって、僕は翔馬を突き飛ばした。後ろに倒れこんだ翔馬が立ち上がる前に逃げようと、僕は慌てて立ち上がってドアへと走る。
だけど、いつの間にかドアの鍵が閉められていて、なかなか開けられない。
僕が手こずっていると、翔馬が近づいてくる気配がした。後ろを振り向くと、勢いよく顔面を殴られた。その勢いで僕は横に倒れこむ。
最初と同じような気持ち悪い笑みを浮かべて、翔馬が近づいてくる。
誰か助けて…
と、その時。
体育倉庫のドアが開け放たれて、倉庫内が明るい光に照らされた。その光の中には、3つの影が浮かんでいる。ゆっくり視線を上にあげていくと、華菜と英美、南奈桜が立っているのが見えた。3人とも怒っているようで、見たこともないくらいに険しい顔をしている。
そこからは、あっという間だった。
翔馬は華菜にボコボコにされ、半泣きで外に出て行った。僕は隅の方で固まってその光景を眺めていた。放心状態で、どこか遠くの出来事のように感じていた。
「結…!」
華菜は僕の名前を呼んで、僕を力強く抱きしめる。
華菜に抱きしめられて安心したのか、僕の目からはとめどなく涙が溢れ出した。声を上げて泣く僕を、華菜は「大丈夫」と言いながら抱きしめ続けてくれた。
僕は華菜といるとどうしても彼氏側に立ってしまう。いつしか弱いところを見せられなくなって、いつもどこかで我慢していた。
今も醜態を晒している気もするが、僕はもう諦めた。僕だって女の子だし、そもそも人間だ。弱い部分の1つや2つあっても何もおかしくない。
気が済むまで泣いた後、僕は3人に連れられて保健室に移動した。
僕たちを見て、春吉先生はとても驚いていた。僕が怪我をしていることに対してなのか、僕たちが4人でいることに対してなのか。おそらくどっちもだろう、と僕は思った。
春吉先生に手当をしてもらい、しばらく保健室で過ごすことになった。なぜか華菜たちも一緒に。
「結が急に走り出したからびっくりしたよ。追いかけて良かったけど、‥‥あの人だれ?」
「えっと…。あの人は元カレ、です。1年前くらいに別れたんだけど、最近メッセージを送ってくるようになって。あの時は、華菜を…奪うって……うぅ」
「大丈夫。私はここにいるよ」
華菜は僕の手を握って優しい微笑みを向けてくれる。
「あの人って翔馬だよね。ほんとなんなの? 私、結が傷つけられるとか耐えられないんだけど!」
そう言ってぷんぷん怒っている英美を、南奈桜が「はいはい」と言って宥めている。
「‥‥でも、なんで英美たちまで?」
「ん? 結を探してるときに偶然会って。事情を話したらついてきてくれたの。奈桜までね。ふふっ」
「そ、それは! 英美が行くっていうから…」
「はいはい」
隣で楽しそうに笑っている華菜。
僕は、華菜が隣にいれば、何があっても笑っていられる気がした。
ずっと、生きていける気がした。
「ずっと」なんて、あるはずないのに。
17
大晦日、僕はマンションの一室の玄関扉の前に立ってインターホンを鳴らした。
今は夜の10時。辺りは暗く、街灯の弱々しい光が道を照らしている。
周りを囲む家からは家族で楽しそうに話す声が聞こえてくる。家族で年越しを迎えるのだろう。
数秒後、機械越しの、くぐもった声が聞こえた。
「はーい、結?」
「うん」
「あ、今開けるね!」
しばらく待っていると、家の中からバタバタという足音が聞こえてきて、次の瞬間目の前の扉が開いた。
扉の奥から顔をのぞかせた華菜は、僕の顔を見るなり満面の笑みを浮かべた。
「結~!」
華菜は明るい声で僕の名前を呼ぶと、勢いよく飛びついてきた。
僕をぎゅーっと抱きしめる華菜に、思わず笑みが溢れた。
「華菜、元気すぎ。とりあえず中入ろうよ」
「そうだね~!」
僕は華菜を促してリビングへと向かった。
華菜の家に来るのは3回目なので、家のつくりはだいたい把握している。
リビングに着くと、ここに来る途中で買ってきたものをテーブルの上に並べた。
年越しの時に食べるそばとうどん。僕はうどん派だが、華菜はそばがいいらしい。ちなみにどちらもカップ麺だ。
朝7時ぐらいまで華菜と一緒に過ごす予定なので、お腹が空いたときに食べられる軽食の類。
そして、バースデーケーキ。
年が変わって迎える1月1日は、華菜の誕生日なのだ。
ケーキは華菜の好きなチョコレートケーキ。
僕的には少し高かったが、今日まで貯金を頑張って、なんとか買うことができた。
「ケーキ!!」
華菜は目の前のケーキを見つめて目を輝かせている。
そのあまりの可愛さに、思わず頬が緩んでしまう。
「ケーキは冷蔵庫に入れとくね」
「うん!」
冷蔵庫の空いていたスペースにケーキを入れた後、僕は飲み物を用意してリビングのソファに座った。
華菜は僕の隣に座ってお菓子を食べ始めた。
「ちょっと…今お菓子食べて大丈夫なの?年越しそば、食べれる?」
「大丈夫~!ふふっ」
「ったくもう、可愛いな」
僕はそう言うと、華菜の頭を撫でて頬にキスをした。華菜は嬉しそうに目を細めている。
それから約1時間半、僕たちは他愛のない話をして過ごした。
いつも以上に華菜のテンションが高くて、リビングの中は華菜の笑い声で満ちていた。
華菜がお菓子をバクバク食べているのを最初は注意していたけど、結局僕も一緒にチョコレートを食べた。
年越しまで10分を切ったところで、リビングからキッチンへと向かい、2人で年越しそばの準備をした。華菜がお湯を盛大にこぼした時は大慌てしたけど、なんとか作り終えることができた。
僕が2人分をリビングのテーブルに運び、2人並んでソファに座った。
そのままそばとうどんを食べ始める。
途中で一口ずつ分けあったりもしながら5分程度で食べ終わった。お菓子も食べていたからか、さすがに満腹だ。
「年越しの瞬間はやっぱりあれですか?」
「うん、そうだね」
華菜がテレビをつけて、チャンネルを切り替える。
テレビの中では、大勢のアーティストたちがステージに集まっている。
時間を見ると、年越しまで残り1分を示していた。
「いよいよだね!」
「うん」
テレビ画面に表示されるカウントダウンに合わせて、僕と華菜も一緒にカウントダウンをした。
3、
2、
1、
「あけおめ~!」
華菜は弾んだ声でそう言うと、隣に座る僕を押し倒さんばかりの勢いで抱きついてきた。
「わっ!もう華菜~!」
僕も華菜を抱きしめ返す。この瞬間を華菜と迎えられたのが嬉しくて、自然と笑顔になる。
2人で強く抱きしめあって、お互いの喜びを確かめ合った。
「華菜、誕生日おめでとう」
僕が華菜の顔を見つめてそう言うと、華菜はクスッと笑った。
「ふふっ、あけおめじゃなくて?」
華菜の言葉に、僕も思わず笑ってしまう。
「それもそうだけど。それよりも華菜の誕生日の方が大事だから」
そこで一度言葉を切り、改めて口を開いた。
「この日を一緒に迎えられてよかった」
僕がそう言うと、華菜は顔を下に向けた。
数秒後、顔を上げてニコッと笑った華菜。
その頬は濡れていて、目からは止めどなく涙が溢れ出していた。
「うん、私も。……結、大好きだよ」
華菜の言葉で、僕の目からも涙が溢れ出した。
何度も頷きながら、ぐしゃぐしゃになっているであろう顔で笑って、僕の想いを言葉にして伝える。
「僕も大好き。…ずっと、一緒にいようね」
華菜はさらに明るく笑って大きく頷いた。
2人でしっかりと抱きしめあった。
耳元で小さく聞こえる泣き声が、華菜の温もりが、僕を抱きしめる腕の力が、華菜のすべてが愛おしかった。
華菜と一緒に笑いあえるのが、すごく幸せだった。
20
僕は、校門をくぐって校内に入り、昇降口へ向かった。
今日、学校は休みで、校内に人はあまりいない。
人気のない階段を駆け上がる。向かった先には見慣れた扉があり、体重をかけてその扉をこじ開ける。
屋上に出た瞬間、凍てつく風が全身を襲った。
2月に入って比較的暖かくなったものの、風が強い日はまだまだ寒い。
辺りを見回すと、隅の方に背中を丸めて空を見上げている愛おしい後ろ姿があった。
僅かに見える横顔がほんのり紅く染まっているのに、思わず頬が緩んでしまう。
「華菜!」
僕が呼びかけると、華菜はゆっくりとこちらを向いて手を挙げた。
僕は足早に華菜の方へと進み、隣に並んだ。
華菜はどこか浮かない顔をしていて、不安げに揺れる瞳で僕を見つめてくる。
心配になった僕は、「大丈夫?」と声をかけた。
「あ、うん。大丈夫!」
華菜はぱっと笑顔になって左手を挙げた。その手には一つの袋が握られていて、小さな箱が入っているのが分かった。
「これ、バレンタインと誕生日のプレゼント!」
華菜はそう言って袋を開けて、中から二つの箱を取り出す。
「こっちがチョコケーキで、こっちが、……開けてみて」
桃色の小さな箱を華菜から受け取り、丁寧にリボンを解いた。
箱を開けると、そこには…
「…これ、指輪? どうして…?」
箱の中には、2つの指輪が入っていた。
シンプルなデザインで、僕好みのものだった。
「ペアリング。何があっても、お互いの事を忘れないように。ずっと繋がっていられますようにって。……重い、かな?」
華菜はそう言うと、僅かに眉を下げた。
僕はそんな華菜を優しく抱きしめて、囁いた。
「ありがとう。ずっと、大切にする。この指輪も、華菜のことも」
僕は箱から指輪を一つ取り出し、華菜の左手を取った。そのまま薬指に指輪をはめる。
華菜は自分の手で光る指輪を見つめ、次の瞬間、手で顔を覆って涙を流した。
僕は華菜をもう一度抱きしめた。何も言わずに、ただゆっくりと背中をさする。
「ごめん。……私、やっぱり消えたいよ。…結と一緒にいられれば、それでいいって、思ったけど、やっぱり──」
消え入りそうな声で言葉を紡ぐ華菜を、ただ強く抱きしめる。
離してしまえばすぐにでもいなくなってしまいそうで。
いくら考えても上手い言葉が見つからなくて、ただ抱きしめることしかできないけど、それでも───
「ごめん」
そう呟いて、華菜は僕の腕の中から抜け出した。
そのまま僕の横を通り過ぎていく。華菜が向かう先を見ると、その部分だけフェンスが破れているのが目に入った。その瞬間、華菜が何をしようとしているのかを理解する。
僕は慌てて駆け出した。
華菜に貰ったものが手から零れて足元に落ちた。僕はそれも気にせずに、華菜の後ろ姿だけを見つめて息を切らして走り続けた。
「華菜!」
そう、何度呼びかけても華菜は止まらない。
ついに華菜の手がフェンスに届き、屋上の縁に足をかけた。
僕は懸命に手を伸ばして華菜のもう片方の手を掴む。
「離して…!」
華菜は僕の手を振り解こうとする。
「華菜、ちょっと落ち着いて! っ、華菜!」
「もう嫌なの! 楽になりたい!」
涙で濡れた顔を歪めて叫ぶ華菜をこの世界に繋ぎ止めたくて、必死に訴える。
「辛いなら、辛いならまた僕と一緒に逃げよう! 僕は華菜を守るから! ねぇ!」
僕がどれだけ叫んでも、どれだけ強く訴え続けても、華菜を楽にしてあげることなんてできない。
そんなことはわかっている。
でも、それ以外に僕にできることなんて何も思いつかなかった。
僕の想いが華菜の心に届くように祈りながら叫び続けるしかなかった。
「華菜! 僕は華菜がいないと駄目なんだよ! いなくならないで…!」
僕の想いが届いたのか。
華菜が体の力を抜いた。
その一瞬の変化を見逃さず、僕は華菜の腕を引っ張って強く抱きしめた。
僕の肩に顔を埋めて|咽《むせ》び泣く華菜。
その頭を撫でながら僕は言い聞かせるように囁く。
「大丈夫。大丈夫だよ。僕は絶対華菜から離れないから。…大好きだよ、華菜」
華菜に聞こえていなくても、それでもいい。
僕の気持ちは華菜に届いてるって信じてるから。
届いていないなら、届くまで、伝え続ければいい。
今はただ、華菜が消えてしまわないように、抱きしめるだけ。それだけでいい。
しばらくして華菜が泣き止むと、僕は華菜の体を支えながら屋内へと戻っていった。
華菜がくれたケーキと指輪は、落としてしまったけど箱に守られて中身は無事だった。
華菜を促してゆっくりと歩く。
目的の場所に辿り着くと、ドアをノックして相手の返事を待たずにドアを開けた。
「え、結さん!? って、華菜ちゃんどうしたの!?」
春吉理恵先生が目を見開いて声を上げる。
華菜が僅かに顔を歪めたのに気付いて、僕は口に人差し指を当てた。
春吉先生は僕の顔を見て小さく頷いた。
「ベッド、借りてもいいですか?」
「もちろん」
華菜を連れてベッドの方に行き、華菜をベッドの上に寝かせた。春吉先生が渡してくれた毛布を掛けてあげた後、僕は傍にあった椅子に座った。
「華菜、何があったの?」
「……昨日、お母さんが家に来て、また殴られそうになったの。お父さんが守ってくれたんだけど、怖かった」
眉を下げて不安げな瞳で僕を見つめる華菜の頬に、優しくキスをした。
「結、ごめんね」
「謝らなくていいから。生きててくれるだけで嬉しいよ。……あ、そうだ」
僕は服のポケットに入れていた桃色の箱を取り出して、その中の指輪を手に取った。
自分の左手の薬指にはめて、その手で華菜の左手を取る。
2人の手でお揃いの指輪が輝いている。
華菜の顔に視線を向けると、華菜は僕の顔を見つめて優しく微笑んでいた。
僕の傍で笑っていてくれるのが、僕はすごく嬉しかった。
視界が滲んで華菜の顔が見えなくなる。
僕は溢れ出す涙を拭って、微笑んで言った。
「華菜、大好きだよ」
僕の言葉に、華菜は嬉しそうに目を細めた。
大好きな華菜の笑顔に、僕の心は幸せで満たされる。
「私も大好きだよ、結」
僕は、華菜と笑いあいながら、心の中で誓った。
華菜を絶対に離さない。
華菜をずっと守り続ける。
華菜と、
死ぬまで、
笑いあい続ける、と。
今年のバレンタインは、チョコレートのようにほろ苦く甘い1日になった。
来年は、甘い思い出でいっぱいにできますように。
そう願いながら、華菜の笑顔をいつまでも見つめていた───
最後まで読んでくれてありがとうございました!
これからもこの作品を愛し続けてくれると嬉しいです!